ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』④『年表・第一期(1867年~) ・草莽崛起の同志を探す』
ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』
ベトナム志士義人伝シリーズ
******************
草莽崛起の同志を探す
21歳から31歳の10年間は、事実、唯ひたすら息を潜め身を隠していた時期である。大きく分けてその原因は2つある。 家族の困窮状態に縛られたこと。我が家は、高祖の代から4代に亘り一人子が続き、跡取り断絶の惧れがあった。私も兄弟無しの孤独の身、貧乏続きで病身だった老父は、生活の糧を我が子に頼らねばならぬ状態になった。
元来生まれつき親孝行の質だった私は、 父に嫌疑の連累を及ぼすような事は遠巻きにして一切関らず、売筆業を以て教師職に専念したお陰でかなり収入が増え、早晩老父を養う金は足りるようになった。そうして後、時に懐に余裕があれば、残り金の全てを客分を養う費用にした。客分とは、過日の勤王党の生き残りと合流して緑林に亡命生活を送る友人達のこと。皆が私との秘密の交流を歓迎した。蓋し、後日に連なる私の失敗の萌芽は、この時期に繋がりを発見するが、生涯で大得意と云える友人への紹介者を得たのもこの10年間だったことを顧みれば、正に≪創造主は研磨により人間を造り上げる≫。名匠の悩み、此処に在りと言えりか。
もう一つの原因は、文章の因縁だ。幼き頃から読書に親しみ早くに大義を解した私は、 小村内で一生を終える気などさらさら無く、いつも、≪夙夜不忘惟竹帛 立身最下是文章(随園詩話中の一句)≫の詩を詠じていたぐらいだった。それなのに、臥薪嘗胆と八股文郷試を受け続け、6度目にやっと合格者として名前が張り出された。その時に作った詩がこれだ。
≪不如意八九事 愁生簾外西風 混竊吹於三百人 愧死門前南郭 ≫
旧知の友人梅山(マイ・ソン)先生は、この詩を大変気に入りいつも口詠していた。この詩一つ見ても、当時は未だ私が名声を羨望していたことが判るだろう。
ここから先は
¥ 100
Amazonギフトカード5,000円分が当たる
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?