『安南民族運動史』(8) ~ベトナム共産党の活動~
大正13年、モスクワのコミンテルンはアジア騒乱の陣容を整えて活動を開始した。ここでは極めて簡単に阮愛国(グエン・アイ・コック)を巡る党の事情と叙上の北部ベトナム及び交趾支那の騒乱事件の性質、経過及び影響を述べるに止める。
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大岩誠氏の『安南民族運動史概説』は昭和16年(1941)年の発刊ですので、やはり当時ベトナムで活発になっていたベトナム共産党の活動に言及しています。
御存知の方も多いかと思いますが、一応公式発表情報によりますと、ホーおじさん(ホー・チ・ミン、胡志明)は、元は潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)と同郷で儒語寺子屋の生徒だった阮悉誠(グエン・タッ・タイン)。彼は、その後フランスに渡り阮愛国(グエン・アイ・クオック)と名を変え共産主義を学びモスクワに行き、後にインドシナ共産党を結成、胡志明(ホー・チ・ミン)と更に変名。そして1945年日本敗戦で混乱のベトナム民衆の前に突如として出現し、『再・独立宣言』を発したとされる国民的英雄の、あの白い顎髭のおじさんです。😅😅
『安南民族運動史概説』に、胡志明の名前は登場しません。この1941年頃まで『阮悉誠→阮愛国』の流れが特に違和感無く、前後の辻褄が合っていると思います。
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阮愛国は、18歳のとき水夫となり、フランスに渡ってパリに住み、社会主義思想に感化され、彩色写真の畫工となって働きながら、独学で其の論理の研究に没頭した。ヴェルサイユ会議の当時に彼はベトナム独立要求を文書に認めて、ロイド・ジォージ、クレマンソー、ウィルスンなどの面々にあてて発送したりしたが、後、フランス共産党に入党し、大正9年にはフランス植民地政策を論難した小冊子を公表した。その後モスクワに入ってコミンテルンの指令を受けて広東に来り、そこを根拠地にして越南の赤化運動に狂奔した。昭和2年頃に香港で『ベトナム革命青年会』を組織し、次いで『インドシナ共産党』を結成し、これを発展させて『越南共産党」を成立させた。
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阮愛国(グエン・アイ・クオック)氏のことは、実は、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)とクオン・デ候の自伝の中にもしっかり出て来ます。⇩😅
「潘佩珠と入れ違いで、阮愛国が広州にやって来ました。阮愛国はやはり乂安(ゲアン)省出身で、幼少から儒語(漢語)を学び潘佩珠から多くの影響を受けました。19歳の時に家を出てフランスに渡り、船夫としてイギリス・アメリカへ航海します。船員たちの中にフランス共産党員が大勢いた為、阮愛国も共産主義者となっていき、パリへ行くと小さな写真屋を開きながらマルクス主義の研究を始めました。」
『クオン・デ 革命の生涯より』
クオン・デ候は、阮愛国が1925年頃に留学先のモスクワから広州ソビエト領事館に赴任しボロージンの指示下で働いていた、と言ってます。
しかしですね、、、この時の広州で、阮愛国が肺病に罹ったことは有名な話です。香港の病院に入院していた阮愛国へ、クオン・デ候が送った手紙(1931年12月17日付)がフランス国立公文書館に保存されてたりもします。では、自伝インタビュー時の1943年末の頃のクオン・デ候は、阮愛国の肺病は完治し元気に活動中と認識していたのでしょうか?
けれど、阮愛国の重病説、肺病説は、様々な史料・書籍に散見できます。
「ホー・チ・ミンは、北部の難民キャンプで伝染病のため死亡したという原文のフランス側の情報を、掃討作戦を持つ軍関係者に日本語に翻訳したという当事者(=大倉雄二氏、第38軍で仏語の翻訳担当、ホー・チ・ミン死亡の情報を訳した)の記述もある」
『ベトナム1945』より
「上海或いはバンコックで猟奇的な逃走を続けた彼(阮愛国)は、ようやくにしてインドシナに入り、そこで主要な都市における労働者の組織に取り掛かった。ところが1931年、香港に赴いてソビエト極東局と連絡しようとしてイギリス官憲に捕えられ、2年の禁固に処せられた。1933年、彼は釈放されたが、既に身体は結核菌に冒され、廃人になってしまった。」
T.E エンニス『印度支那』より
面白いな、と思うのは、1940年前後までにフランスもアメリカ(T.E エンニス氏はアメリカ人)も日本も、『阮愛国(グエン・アイ・クオック)は死亡(廃人同様)』という情報を掴んでいたこと。それなのに、『明(マ)号作戦』前に日本側の最高機密に絡んでいたであろうクオン・デ候が、日本人記者のインタビューの中で阮愛国(グエン・アイ・クオック)を「独立革命同志の中の一人」として親しく紹介している理由は何故なのか。。謎は深まります。。😵💫😵💫😵💫
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由来、ベトナムの北部、乂安(ゲアン)、河静(ハ・ティン)の地方は農村の疲弊甚だしく、常に政治的動揺の絶えないところで、秘密結社も多く、村落自治体のなかにも強く勢力を張っていた。
ベトナムの村落は恰も支那の地方自治体と同じ様に古い歴史と伝統を持ち、フランス70年の支配によっても、なお崩壊しない堅固な組織がある。
郷職は大部分のものが保守的な教養を身に着けた頑固な民族主義者であるが、この傾向を巧みに利用する阮愛国一派の運動に対して、最初は好意的な中立を守っていたのである。ここにおいて共産分子は、ローマ字化した『国語(Quốc Ngữ)』で書いた宣伝文書を盛んに村々に流布し、村の不平分子を糾合するに努めたので、昭和5年末には永(ヴィン)市で約300人、河静県で約400人の党員を獲得したと言われている。その後、世界恐慌が深まるに従って勤労階級の貧困は急速に激しくなるに乗じ、租税の廃止、土地固有、農産物の均等分配等々の好餌を掲げ、主として貧農の人心収攬に没頭し、遂に約5萬の党員を動員し得るに至った。
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北部の郷職=地域管理者の立場にある人々は皆、「阮愛国一派の運動に対して、最初は好意的な中立を守っていた」と、この部分を補足する文章が陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏の回想録『一陣の埃風』にあります。
「ハノイで反日を掲げたべトミンの青年が日本人に捕まったという情報が入り、状況確認の為に私はフエからハノイへ飛んだ。」
「べトミン党はどんな党か、どうして出たのか、どこが源流かなど、殆どの人が能く知らなかった。この時ハノイへ行って詳しく聴き取りしてようやくはっきりその正体が解った。彼等は、1938年初め頃に北部ベトナムの山間部の方で結成、活動を始めたそうだが、その当時沢山ある革命党の一つだろうと思って皆は特に注意をしていなかったらしい。」
『一陣の埃風』より
1945年5月頃に於いても現地ではまだこんな感じで、ハノイへ飛んで詳細に調べた結果、キム氏が現地で得た情報とは、こんな感じです。⇩
「阮愛国は、”香港の獄で死亡”という誤報の後、李瑞(リ・トゥイ)と変名し、中国に居たベトナム革命党の人間と一緒に中国で活動していた。そして、1936-37年頃に共産主義の『ベトナム独立同盟=べトミン』を結成し、べトミン党員が屡々ベトナム北部山間部に来て活動したので、北部の人は徐々に”べトミン党”の存在を認識し始めたという。」
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北部安南、殊にトンキン地方は人も知る通り有名な貧農地域で、狭隘な平野に過大な農村人口を抱懐している。一平方キロメートルに430人という過密ぶりに加えて、重税と低収入に喘いで高利貸しの餌食となって田地を撒き上げられてしまう有様である。
農民は生きるためにやむを得ず借金をせずばならず、借金をすれば田地を取られて永久に浮かぶ瀬のない奴隷状態に陥ってしまう。そのうえ租税は言わずもがな、官人の苛歛誅求、村落自治体の公共事業には強制労役が課せられるのであるから、共産系の巧餌に深い考えもなく飛びついたのである。
この悲惨な運命は農民だけでなく、工場労働者の上にも襲っていた。労働者はその家族に食わせることさえ出来ない。着物や住居はどうするのか。
…茲に特に指摘しなければならないのは、ベトナムの社会、殊に農民を始め勤労者の労働条件は頗る劣悪であり、容易に赤化工作の乗ずる隙をもっていることである。支那においても見られるように、労働問題殊に農業問題はベトナムの政治的独立と関連して徹底的解決を要請していると考えなければならない。
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著者の大岩誠氏は、当時のベトナムでの暴動頻発の理由を、『北坼の騒乱は、かように貧乏神に逐い立てられた一揆であり、農工労働者の絶望に乗じた社会騒乱であった。」と書いています。
『ベトナム史略』にも、ベトナム北部地方は「山林多く居住者少なし。下部一帯は「中州」、平野地帯に大勢が犇めき合いながら住んでいる」とあり、『山の精、水の精』という古い民間伝承を伝えています。どちかが美しい姫を娶るか競い合い、山の精に負けた水の精が、毎年必ず一回山に洪水を起こす言い伝えですが、編者の陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏はこう言います。
「この昔話の元になっているのは、北越地方の洪水のことだ。毎年6月、7月になると、上部地域で起こった河川の氾濫が下部の平地まで流れて込んで来て、田畑が水流に飲み込まれてしまう。昔の人々は何故だか理由が判らず、これは山精と水精が争っているせいだ、とこんな昔話を作ったのだろう。」
昔から続く東北山間部の農業問題、人口問題、食料問題。加えて長引く戦争が引き起こした労働問題に格差問題、貧困問題。挙句にその上、フランス植民地政府が課した税金の税率が上がり続ける社会なら、政治や主義など関係なく、必ず人民による暴動が頻発しますよね。。。
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この軍勢を基礎とし、(阮愛国の共産主義一派は)国民主義の秘密結社たるベトナム国民党をはじめとして知識層及び官人進士などの組織する『新越会Tân Việt Hội』とも提携した。(中略)また青年志士を糾合した『ベトナム青年革命同志会』も、元来は民族主義者の国体であったが後に共産派の指揮下に置かれるにいたり、その一翼として活動した。
かように阮愛国の一党は貧農を基本部隊とし、民族主義者的な知識層から、官吏、文人、民族資本家たる郷職及び都市の商工業者までを網羅した大きな反フランス部隊を結成したのである。
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『新越会Tân Việt Hội』に、『ベトナム青年革命同志会』、「ベトナム国民党」に『ベトナム愛国党』『復越会』『興越会』『大越同盟』、『ベトナム独立同盟』『ベトナム革命同盟』、、、、💦💦 クオン・デ候の『ベトナム復国同盟会』とも名前が似ていて非常に紛らわしい。。。😵💫
『回想録』でキム氏が、「政治活動に一切関わらなかった」という趣旨の事を何度も書いた理由も、何となく察せられる気もします。
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その後、フランス本国に人民戦線派の政権が樹立されるにいたって、彼等の活動も半合法性を与えられ、本国からは続々党幹部が来越して組織の強化につとめ、学生層への働きかけも激しくなり学生運動は頻発するに至った。
まして一般民衆は、安沛(イエン・バイ)事件以後さらに激化したフランスの圧抑政策に直面して、北方から宣伝(=共産主義のこと)に耳を傾けざるを得なくなったのである。蓋し洪水は繰り返され、凶作は続き、数千の知識人は職を得ず、経済恐慌の打撃は容易に回復せず、しかも狂気に近い鎖国密偵政策は益々強化せられ、フランスと結合する官人は腐敗の底にあって人民を誅求する状態は、依然として持続されたがゆえであると言われている。
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この⇧『フランス本国の人民戦線派の政権」をネットで調べますと、「元フランス社会党のレオン・ブルム氏らが、共産党と共に結成したのが『フランス人民戦線』で、1936年総選挙で勝利して6月に『ブルム内閣』が成立。1939年8月末に独ソ不可侵条約締結で、人民戦線側は完全に崩壊」とありました。要するに、人民戦線の後押しはソ連・コミンテルンですかね。
神谷美保子氏の『ベトナム1945』にも、「フランス人民戦線政府成立に呼応して、コミュニズムが(ベトナムで一時)勢力を持った」とあり、これは丁度、阮愛国(グエン・アイ・クオック)が中国南部で「1936-37年頃共産主義の『ベトナム独立同盟=べトミン』を結成」した時期と被りますので、スポンサーが誰か判り易い気がします。
しかしです。阮愛国は、先の1929年位に乂静(ゲ・ティン)省を中心に共産ゲリラ戦法で激しい暴動を指揮し注目を集めて後、”香港で死亡説”の流布を覆し、どっこい”生きて”いました。そして、1942年頃まで中国で李瑞(リ・トゥイ)として活動、逮捕入獄。出獄後胡志明(ホー・チ・ミン)と改名し、『ベトナム革命同盟』に入党と、1945年5月頃に現地調査をして得た情報から整理したこれら一連の”変遷経過説明”が、キム氏の回想録『一陣の埃風』には書いてあります。
こうして整理して行きますと、多分この1942年の李瑞(リ・トゥイ)⇒胡志明(ホー・チ・ミン)のタイミングが、最も大きな変化が生まれた時期じゃないかと印象を持ちます。大きな変化とは、ここで素晴らしい才能が一気に花開くんですね、類まれなる『戦略、宣伝、カリスマ性」の発揮。「宣伝文書を盛んに村々に流布」するなどの広告宣伝手法を非常に得意とするようになりました。
キム氏は、「べトミンのやり方というのは、緻密でアカデミックな手法を取り入れ、ホー・チ・ミンは国外に在りながら、国内何処の組織にも人が入り込んで巧みな宣伝を行った。ベトナム人の愛国心を利用し、べトミンは共産主義ではない、全ての主義会派を総括して、ただ祖国の独立を目指す団体だと宣伝した。これに国内の多くの人が従ったのは当然だ」
このように⇧回想録に書いてます。そして、1945年頃のサイゴンで見た、興味深い経験も書き遺してたりします。
「不思議なことは、フランスの検閲下にあるサイゴンに、政府公認のベトナム新聞雑誌が沢山ありべトミンを擁護している。新聞記者は”私はべトミンの人間であることを嬉しく思う”と記事に書く。どうしてここ(サイゴン)のフランス人はそんなに寛大なのか?とその記者(=ベトナム人)に尋ねたら、彼はただ笑っているだけで何も言わなかった。」
『反フランス、打倒フランス』!!で、「貧農を基本部隊とし、民族主義者的な知識層から、官吏、文人、民族資本家たる郷職及び都市の商工業者までを網羅した大きな反フランス部隊を結成した」(グエン・アイ・クオックの?)共産党一派=べトミンは、フランス検閲下の国内メディア、特にサイゴン大手メディアに熱烈に擁護されていた、というオチ。💦😅
なんだ。。結局フランス(人民戦線)がベトミンの元祖スポンサーで、だからフランス社会党、共産党が本国から続々来越して「組織の強化」して「学生層へ働きかけ」て「学生運動」を頻発させたと。。。
それで、ホーおじさんの『再・独立宣言』がこれか、、、というオチになりますか、、、やっぱり。😵💫😵💫💦💦
まだまだ不思議な話が続きます、この頃のベトナム。