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ハイデガー『存在と時間』入門―おしゃべり、好奇心、曖昧さ~SNS

      抽象から具体、具体から抽象理論へ

おしゃべりは大好きだ。一方通行はつまらない。
好奇心があるのに、それを活かせないのはもったいない。
曖昧さは、人と関わるうえで必要だ。

この3つは人のあり方を構成するものとして、全体を形づくっている。ハイデガーはこれらは互いに関連しているという。(そしてそれを堕落という・・・厳しい🍀)
この難しい哲学には汎用性がある。

ハイデガーはあまりに難しいので、ここからは新しいアプローチ。
『まんが!100分で名著ハイデガー 存在と時間  監修:戸谷洋志  +NHK制作班』は一家に一冊、一課に一冊、クラスに一冊あるといい。まんがと侮ることなかれ。

はじめに
戸谷氏はSNSの負の側面に対して何故、「みんな」の意見に同調してしまうのか、何故無責任になってしまうのか、そしていつの間にか誰かを傷つけてしまう危険性があることを指摘している。その意見に同意したうえで、私は最近のSNSからの気づきを述べたい。一つには所謂、誹謗中傷のなかには利害関係があり、意図的に相手の評判を落とし自分が利益を得ようとするものがあること。(営業妨害で即座に対応でき収束が速いのもSNSの長所)
二つ目は玉石混淆の多くのコメントは、世間一般の傾向を知る一つのバロメーターにもなり得ることだ。そして次第に慣れてくると、知識や経験豊かな人たちの多面的な考えを一気に知ることができる。専門的な知識や経験のある人が次々と持論を述べる。(特に専門職や経験者のコメントなどはSNSがなければ知ることはなかっただろう)専門職でなくても自分の考えをしっかり述べる。一人一人の有権者の意見。内部の事情を知るという人も述べる。(真偽不明のまま)記事(議題)ごとに何百何千の考え方や、捉える視点を知ることができる。スピーディーに民意と解決のヒントを知る手法にもなる。
また根拠のない意見や感情的過ぎる意見、悪意のあるコメントなどを選別するメディア・リテラシーが実践的に身に付く。
これらもハイデガーのいうところの人間分析にならないだろうか。
今はまだSNSは過渡期。誹謗中傷への対応も少しずつ適正化している。SNSは読まない人も多い。読んでも静観する人がほとんどで、いいね👍️を押す人も全体の中ではほんの一部。
だから心や体を、壊しませんように。AC広告でメディアリテラシーを広めるのも一案、いろんなバージョンで。

第1章  私たちは同調しながら生きている
誰しも似たような経験をしたことがありそうな日常的な場面をもとに、分かりやすく表している。

column1は「ハイデガーってどんな人?」
私が苦労して読み取ったことが、いかにもすっきりと洗練された文章でまとめられていて・・・嬉しく、ちょっぴり徒労感。でも後半の波乱の生涯については初めて知った。もし知っていたらこんなに好奇心が続いただろうか。どう捉えたらいいのか分からないから、探究は続く。

第2章   いつの間にか加害者に・・・
まんがのストーリーは《常に空気を読むことによる弊害》へと進む。責任の所在が私からみんなへとスライドし、そこに《責任の不在》が生じるという。
世間話、好奇心、曖昧さは、頽落(たいらく)=堕落らしい。だったら、どうしたら本格的な生き方ができる?

column2
「ハイデガーへ影響を与えた哲学者たち」
哲学者たちも、先人たちの知恵を借り受けてその蓄積に基づいて自分の思想を築いたという。フッサールの実証主義に対する『現象学』と、執筆が進むなかでのハイデガーとの違い。二人はやがて思想上の訣別に至る。

第3章  本来的な生き方を取り戻す
まんがの中の喫茶店のオーナーの言葉
「あの人(夫)は、自分の死と直面して初めてこういう働き方しかないという思い込みから逃れられたのよ」
ハイデガーは、死の可能性と直面することを『死の先駆』と呼ぶ。
オーナーは語りかける。
同調ばかりしていると自分の意思なのか人の意思なのかも分からなくなって、他の誰かと交換可能な自分になってしまう。けれど「死」だけは他の誰とも交換できない。だからこそ「死」は思い起こさせる。
それぞれの人が、かけがえのない個人だと。
そしてそれが本来性を取り戻す鍵。

私自身、図らずも死を身近に感じることが続き『それがおまえの生き方か』と自分に問うたことがあった。良心かどうかは分からないけれど、心の声。
自分の責任として引き受ける『決意性』は現在進行形。

column3 
ハイデガーが影響を与えた哲学者たち

第4章  「責任の本質」とは?
ここが一番重要だと思えた。ハイデガーがナチスへの支持を表明した?
無理やりでなく?
恐怖からでなく?
師フッサールも、ハイデガーの子どもたちと言われた弟子たちもユダヤ人・・・。
二人の弟子たちは、ナチス加担を可能に
してしまう素地が『存在と時間』のなかにあると考え戦後の課題とした。
ここで---おしゃべり・好奇心・曖昧さ---に戻る。
弟子アーレントは、『死への先駆』が他者との関わりを切り離し、孤独をよしとする考え方が人々を全体主義へと向かわせたと考えた。他者と関わるからこそ、私たちは一人一人の存在を知り、その個性を知ることができるのだから。また、自分の個性を自覚するのだから。
もう一人の弟子ヨナスは『決意性』に問題を見出だす。良心に従って決意するにしても、何に良心を感じどんな決意をするのか。傷ついた者、弱い者を守らなければならない時に良心が呼び掛ける、そうした道徳性に対する洞察が欠けていたと。
アーレントとヨナスは、ハイデガーの影響を受けつつ『存在と時間』の不足を補い、全体主義に抵抗しうる政治や倫理を模索し、乗り越えて行った。
おしゃべり、好奇心、曖昧さは、人の弱さや傷ついた心を知るうえで意味がある。と私は思う。だから退廃ではなく、孤立化しないためにも必要なときもある。

おわりに
戸谷氏は『存在と時間』は問い直し方を徹底して考えた本であり、『当たり前』の支配に気付くきっかけとなると教えてくれる。

読んでいて渡邊二郎氏の文を思い起こすときもあり、ブックガイドに紹介される他の入門書をもっと読みたくなる。

(付録)
SNSでは全体像が掴めないフジテレビの問題だったけれど、1/26朝日新聞  社説は問題点がすっきりと見えてきた。既存の伝統的メディアは、その持ち味を活かしている。
vs SNSではなく、SNSのメリットとデメリットを広い立ち位置から読者に知らせてくれるとありがたい。新聞もYouTubeなど音声で価値ある情報を伝えたりなど、新しいアプローチの可能性大。

 


 





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