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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
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興味があった「関心領域」を観てきました。

ポスターを見てからずっと気になっていた「関心領域」という映画を観てきました。
結論から言うと恐ろしい映画でした。

この映画のネタバレを含む記事なのでご注意ください。しかし、見た上でも十分に見る価値があるので興味があれば読んでもらえると嬉しいです。

空は青く、誰もが笑顔で、子供たちの楽しげな声が聴こえてくる。そして、窓から見える壁の向こうでは大きな建物から黒い煙があがっている。時は 1945 年、アウシュビッツ収容所の所長ルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)とその妻ヘドウィグ(ザンドラ・ヒュラー)ら家族は、収容所の隣で幸せに暮らしていた。スクリーンに映し出されるのは、どこにでもある穏やかな日常。しかし、壁ひとつ隔てたアウシュビッツ収容所の存在が、音、建物からあがる煙、家族の交わす何気ない会話や視線、そして気配から着実に伝わってくる。壁を隔てたふたつの世界にどんな違いがあるのか?平和に暮らす家族と彼らにはどんな違いがあるのか?そして、あなたと彼らとの違いは?

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音と映像の乖離を描く映画

この映画のすごいところは音。これは本当にびっくりしました。
普通、映画は映像に合った音楽や音が聞こえますよね?
しかし、関心領域では全く違います。

映る映像と、流れてくる聞こえる音は全く違います。常に「ごぉ〜」というなにかの大きな施設が動く音、「パンッ」という乾いた銃声音、痛みに苦しむ人の声や怒号が遠くに聞こえてきます。

ごぉ〜っていう音はなんとユダヤ人を焼却するための焼却炉の音で、銃声やつらそうな声などもすべて塀の中の音を使っています。

なので映像では幸せそうな家族が写ってるんですが、ずっと雑音のように映像からは見えない声や音が入っているのです。
これに映画を見ていくうちにだんだん違和感を覚えず、気にならなくなってしまうのもまた関心領域から外して映像を見てしまっているのです。

ロングショットで突き放す映画

この映画は意図的に常にほとんどロングショットで撮影されています。つまりほぼ動かない定点カメラのような感じで、常に引きでのショットです。
それがなんとなく見てる側がこの家族を一歩引いてみてる、「別の人間だ」という感情にさせる撮り方です。
これを見てる僕らもまた、「まあこの異常な家族、人々とは自分は別だし…」という関心領域の表現だと思います。

ジョナサン・グレイザー監督も「彼らを化け物だと責めるのは簡単だ。だがしかし、彼らも最初は夢を語り合う恋人同士だった。彼らが望むものは我々と変わりない。彼らに自分自身を重ねて映画を観てほしい」と発言しています。

残虐なものは見ない、自分自身と向き合う映画

この映画を観終わった時に感じたのは「恐ろしさ」です。矛盾点が多い一家の異常さは誰しも持っている関心領域の引き方なんです。

この一家の生活が裕福なのはユダヤ人虐殺の上でなりたっていて、ユダヤ人を汚れたものであると認識しながらも矛盾行動がとても多いです。

結局僕も同じじゃないんでしょうか。

SNSも見たいものだけ見たい、見たくない事実や現実を遠ざけていく、それは誰しも持つことです。
臭いものには蓋をする、まさにそれが観客である我々にも「自分自身にぞっとする」瞬間を与えてくれる映画でした。

関心を向ける方向が違うことが関心領域

「見る」と「見えてる」
「聞く」と「聞こえてる」これって違いますよね?

関心を向けると見る、聞くになるんですが、関心を向けないと見えてるし聞こえてるけど脳に残らない。

この映画でもヘスが、夜プールの横でたばこを吸って何かをずっと眺めているんですが、観客はこれを「収容所の黒煙」を眺めているものだと思っています。
しかし、次のシーンでヘスはプールの水を止めに行きます。「あれ!?そんなところ見てたの!?」そう観客は思います。
これこそが関心領域だと思いました。

観客である僕らは背景に映る、人を焼く黒煙や悲鳴、大きな不気味な塀が気になって「見る」んだけど、この家族にとっての関心はそこにはありません。

関心領域、まさにそれが表現されています。関心を向けない領域。なんか恐ろしい思いをした映画でした。

残虐なシーンは一切ないので、そういうシーンが苦手な方にも観れる怖い映画でした。



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