映画「すばらしき世界」見た感想
理不尽を目にした時、物理的な暴力を避け、社会的な規範に従い口で仲裁するのではなく、手が出てしまう三上について。
感情制御ができないという行動の背後には
幼少期に適切な指導者や安定した愛情のある家庭環境がなかったことが影響しているのだと思う。
堅気として振る舞おうとしても
未熟なままの子供の感情が表面化しやすく、結果的に社会で適応できない。
白と黒の二極思考で許容が存在せず、善悪を極端に捉えているから
ルールに従わなければならない一方で
いじめのような理不尽を目にすれば即座に行動に移してしまう。
とあるYoutuberの映画に対する感想を見た。
彼はそこで、三上は獣で短絡的であると言っていた。
私は、三上が獣なのではなく
感情がコントロールできない獣というのは、子供も同じだと思った。
つまり何が言いたいかというと
幼少期に感情を教え導いてくれる存在がいなかったことで
彼は大人になりきれず
感情制御が未発達なまま残っていることと繋がるのではないか。
三上は愛着障碍だったのだと思う。
「生きる世界が違う」という比喩があるが、三上はグレーゾーンであり
掴みどころのない揺れる森のような存在だから
世界に、生きやすい場所を見つけられないのだ。
救われる道もあったのかもしれないが
三上のような人間でも生きやすい場所を探すための手段も
そもそも環境や運に恵まれていないと思い浮かびすらせず
自らの手で全てを手放すという白黒思考になってしまうかもしれない。
短絡的、という表現も少し違うような気がする。
なぜなら映画の中の表現を借りると「白い世界」 で生きている私も
あのような差別的いじめを見れば
そいつの指を目の前にある鋏で切り落としてしまいたくなる感情に襲われるかもしれないからだ。
単に感情の制御ができないという違いだけなのではないかと思う。
ラストのシーンの解釈は
嘘をついて周りに合わせたり
社会に馴染む為にいじめを見てみぬふりをして談笑したり
抑えきれず人を傷つけてしまうことや、どこにも自由などない事に絶望し
また、理不尽で自己責任論な社会から
誤解され続け、傷つけられる事も耐えられなかったのだと思う。
最後に貰ったコスモスを握りしめているシーンを直視するのがつらかった。
この映画のタイトル「すばらしき世界」は
善良に生きたいとどれだけ純粋に願ったとしても
そうはさせてくれない社会が先にあり
純潔であろうとする信念を曲げて嘘をつき
厄介事には目をつぶり、自分の本当の感情さえ無視をして生きる
そんな世の中への皮肉なんだと思います。
社会問題に関して、一般的な個人にできることは限られているように思うが
まずは「知る」ことが大事だと思う。
そして伝えていく。
すると個が集団になり、集団が組織になり
働きかけた結果、知る人が増える=認知が進むということだから
その影響が徐々に広がり、最終的には社会全体に変化をもたらすこともできるのだと思う。
社会的弱者(子供・老人・障碍者・マイノリティ・貧困者・三上のような人、など)が生きやすい社会とは、セーフティネットが整い
人権や動物を大切にする、きっと誰もが生きやすい社会である。
一方ネットでは
弱い立場にいる人々を攻撃したり、分断を煽る人をみかけるが
誰もが平等に年を重ね、病気や障碍を負ったりするかもわからない。
自分が苦しい状況になった時、同じように厳しい言葉を向けられる社会であって良いでしょうか?
被災地に住む人々に対して「そこに住んでいるのが悪い」といった声を聞くこともあるが
自分が同じ立場になったとき、そうした言葉を受け入れられるでしょうか?
自己責任論は、苦しい人間がいても政府は何もしなくても良いという、政府にとって都合の良い洗脳でしかないと思う。
決して公平でも正しい考え方でもない。
これは他人事ではないのだ。
三上のような純粋な人間が、どうか
生きやすい世の中になってほしい。
追記:
・この映画はコメディと称され、劇場でも笑いが起こったと言っているYoutuberがおり、特に過激なシーンが笑えるとの感想を見たが
私にはどこが笑えるのか全く分からなかった。
「感情制御できない人を見て笑う」という構図はグロテスクだと思う。
三上を可愛らしいおじさんという“ファンタジーキャラクター”として記号化することも難しかった。
2024.09.24