プロレスは茶番ではない、肉体と精神を浪費する究極のアートだ
※この記事は時事雑談に見せかけた映画レビュー記事です。最後までお読みください。※
2023年11月24日、立憲民主党に所属する塩村議員がアンチに対する揶揄的な発言として、以下のようなツイートを投稿した。
これについてはプロレス内外の関係者を問わず大激怒が巻き起こり、あの塩村議員は珍しいことに謝罪を行った。
では、なぜこのような発言が炎上してしまったのだろうか。
今回はそれに伴い、ぜひ塩村議員に見てほしい映画のレビューを行いたいと思う。
塩村議員の発言が炎上した理由
では、なぜ塩村議員の発言は炎上してしまったのだろうか。
これについてだが、塩村議員がどういう文脈で「プロレス芸」という言葉を使ったかわからないが、古今東西いわゆる茶番の代名詞としてプロレスという言葉をいろんなところで当たり前に目撃している。
これについて多くのプロレスファン・関係者はかなり怒っている。
当然だが、プロレスは本当の格闘技ではなく舞台劇の側面があることは皆さんもご存じだろう。
しかし、そこには血と汗と絶え間ない努力があり、そこに裏打ちされた確かな技術の応酬があるからこそプロレスはエンターテイメントになりえている。
それを理解しない人間であったり、理解していてもその場の空気に流される人間が揶揄的な言葉として「プロレス」という言葉を安易に使用しているのだ。
塩村議員はまさに前者で、理解しておらずそのまま茶番の代名詞として侮辱的な言葉としてプロレス芸という言葉を使用したのだ。
皆さんも知っていると思うが、プロレスは現在世界的なエンターテイメントとして高い注目を受けている。
2017年の元アメリカ大統領ドナルド・トランプがWWEのビンス・マクマホンに選挙資金を貸してもらっていたのは有名な話だ。
つまり、そんな世界的エンターテイメント産業になっているプロレスを公衆の面前で侮辱することは、その業界にかかわるすべての人間を侮辱していることに他ならない。
また、プロレスという興行は命を懸けて行うものであるので、当然試合の最中に死んでしまう人だっている。
あの三沢光晴だってそうだった。
オーエン・ハートもそうだ。
観客を楽しませ、命を減らしてまで演武を続ける、それがプロレスのすごさなのだ。
これは言ってもわからないとおもうが、実際にその目で確認すればプロレスは決して茶番ではないということがよくわかる。
今回はその舞台裏を描いた名作映画をご紹介しよう。
老体に鞭を打ち戦うレスラーの悲哀を描いた「レスラー」
2008年に公開されたダーレン・アロノフスキー監督の映画「レスラー」
本作の主演は80年代に活躍した元祖セクシー俳優のミッキー・ロークである。
彼が演じるのは50代を超えてもなお、プロレスラーとして生きているランディ・ラムである。
プロレスのリングに上がればみんなのヒーローで、近所の子供たちからも慕われている街の人気者だが、生活に困窮したランディはスーパーの精肉係でバイトしながら生きているという冴えない中年になっていた。
しかし、そんなランディもとうとう歳に逆らえず心臓発作に悩まされるようになる引退も考えたり、残してきた家族との時間を考えようとするランディ。
これは当たり前であるが、プロレスラーである以上、体を酷使しているのだ。そして、プロレスラーとして地方を巡業する以上、家族との時間は作れなくなってしまう。
これは八百長でも芸でもシナリオでもなんでもない、当たり前のことだ。
当然この時間と体力の問題は、現実世界のプロレスラーも同じだ。
最終的に、ランディは家族も捨て病気も我慢しプロレスのリングに上がり続けるという最期を迎える。
そこには不器用だが、プロレスを愛し続けた一人の男の生きざまがある。
プロレスラーは命を懸けて観客を楽しませるために大けがを負っている、そこに魅力がありロマンがる。
だからこそ、この映画の主人公ランディはただのさえない中年男ではなくオタクや子供たちのヒーローであり続ける。
また本作の元ネタとなったのは別のドキュメンタリー映画「ビヨンド・ザ・マット」におけるジェイク・ロバーツ編であるともいわれている。
重ね重ねいうが、プロレスラーは決して「芸人」でも「茶番」でもない、プロフェッショナルとして己の肉体精神を浪費して、人々の記憶に残ろうと表現するアーティストなのだ。
今後茶番=プロレスというような使い方はなるべく、このnoteを見ている読者のみなさんにもお控えしてほしい限りである。