10年ぶりに大学の友達と会った話とウクライナ・ロシア戦争の話

約10年ぶりに大学自体の友達と会った。

偶然自分がドイツにいることを知って、ちょうど他の知人ともドイツで会うから、会ってみないかと声をかけてくれたのだ。

友達といってもゼミで一緒になっていたくらいで、その後は疎遠だった人だ。

彼女はゼミの中でも群を抜いて研究者気質で、頭ひとつ抜けて思慮深く、令嬢感のある人だった。

誰に対しても穏やかで接しやすく、腰が柔らかいのに芯がしっかりしていて、本当に学生の時から素晴らしい女性だったことを覚えている。

そんな彼女は海外の大学院で勉強をし、アメリカでインターンを得て、現在は国連の機関でウクライナで仕事をしているらしい。

まさしく絵に描いたようなサクセスストーリーで、どんな人でも夢に見るほどの人として素晴らしい行いをしていると思える。

そんな彼女と駅で再開した際、思ったのは「若っ」

同じ年齢に全く思えないくらい見た目が若かった。

それは服装とかそんなちゃちなレベルではなく、いわゆる積み重ねによる若さ。

日々のケアを怠っていないことが見える若さだ。
自分が過去友達の結婚式に行った時に一人だけ老けていたあの感じを思い出してしまう。。。

ただ、僕はどうしても良くない意味でも人を舐め回すように見てしまう。
特に最近は仕事ならびにちょっとした興味で爪を見るようになったのだが

彼女のファッションは欧米に感化されたスタイルであるものの、爪に関しては深爪レベルで、何もしていなかった。ただ栄養状態は良さそうだが。

その後話を聞いていると、ウクライナの病院での物資の支援や補助をしているらしい。なるほど、そうなるとネイルなどをすると何かしらでリスクを生じてしまうのかもしれない。

自分たちがあったのが夕方だったので、そこから自分が予約したレストランに行き、いろいろ話した。ただ自分が相当おしゃべりなせいで彼女はほとんど聴く側にまわっていたのだが‥

ただ、本当に気になったことがある。それは節々から漏れるように「ドイツには安心感がある」といっていたことだった。

安心感。それは自分がドイツに行ってあまり思わないというか、むしろ危険感の方が強いにも関わらず、彼女から見れば文化的で、綺麗で、そして何より安心できる場所だといっていたことが、僕の心に非常に重くのしかかった。

僕は営業を本当に苦しんでやっていたが、窮地が多すぎて人を見る目がそれなりに養われた気がしていて、人の言葉には本当に言霊が乗っていると思う派であるが
彼女の言葉はそれだけ重たかった。

それは彼女の文脈から察したというよりも、本当に、どうしても漏れてしまったかのように「安心できる」といっていたことにある。

実際は自分が感じたほど彼女は危機的な状態だとは思っていないかもしれないが
漏れるように出てくる言葉は、例えばあまりにも美しすぎる自然に出会ったときのような、あまりにも切ない映画をみて涙が伝って漏れてしまうような、そういう蛇口からどうしても水が漏れてしまったような抑えきれない感情だと思う。

この重さに僕は正直簡単な言葉で言えばビビった。
会う前まではすごく興味があって色々聞こうと思っていたのに
気軽に聞いて良い話なのかどうか迷った。

そこから色々話をしているうちに、ウクライナではやっぱり色々起こっていることも理解した。

言葉がロシア語とウクライナ語があって、戦争が始まった時はみんなウクライナ語を意識して使っていたのに今は疲れてちょっとロシア語が漏れているとか

お肉が中心の食事で魚はあんまり食べることのない文化とか

冬は寒くてマイナス15℃になるとか

祝いの時の料理がどんなものなのか

休日皆どうやって過ごしているのか

6週間に一回?は休みを「取らなければならない」環境であるとか

去年は襲撃もあって冬場に暖房が使えなかった時期があったとか

そんな他愛のない話もある、貴重な日常話を聞くことができた。

そう、他愛のない話だ。

誰もが当たり前のように過ごしているその時に
彼女たちはドイツをこんなに「安心する」と思えるほど

目の前にいつ爆弾が落ちてくるかわからない
いつ自分たちの生活の場所が奪われるかわからない

そんな漠然とした、コントロールのできない環境の中
不安を押し殺して毎日を普通に過ごそうとしているのかもしれない。

僕は最近、妻の仕事環境のこともあってイスラエルパレスチナの問題に
自分はどう結論をつけようか、頭の中で思考をしている。
この問題も非常に複雑で、どうしても誰が悪いと言い切れない
立場を決めろと今言われてしまっても何もできないような
そんな問題だと思っていた。

でも、彼女の話を聞いて、前提が違うんだと思った。
日常に色こく死の臭いが充満してるだけじゃなく
最低限の生活がいつ失われるかわからない。
そんな状態が続いているのだ。

文字に起こして終えば、簡単だ。
誰もがインターネットでウクライナの惨状を調べれば
同じことが想像して書けるだろう。

でも違う。これはそんなレベルの話ではない。
重いのだ。
だけどプーチンが。とかゼレンスキーがとか
盤上のゲームの話ではないのだ。

僕たちはSNSやネットでまずイデオロギーの話をする。
そしてどうやったら解決するかを
頭の中で思考して、頭ごなしに文字で戦う。

「こうするべきか」「ああするべきか」
「お前は違う」「お前はおかしい」

こうしている間に、目の前の前線では人が死んでいて
全てを無くした人が絶望しながらドイツやヨーロッパに
流れていっているのだ。

大前提が違う。戦争を盤上を見てどうするか?
難民をどうするんだ?
ではなくて、とにかく人が死んでるから
やめろよ。そういう話だ。

ワンピースのコビーが言ったように

命がもったいない。
本当に、バカみたいだ。
娯楽漫画なのに、このシーンが重い。
重たすぎる。

違う。とにかく戦争をやめろ。
誰かが辞めるんじゃなくて
みんなやめろよ。

僕たちはコビーのように
勇敢な自殺ができる人はきっといない。
シャンクスのように
都合よく助けてくれる、世界を一息で変えられるような
四皇もいるはずもない。

でもワンピースみたいに
僕たちは勇気ある数秒を生み出す力はあるのかもしれない。
誰もが声をあげて、ただ戦争をやめろと
全ての人が口を揃えれば
争うことを止められるかもしれない。

僕はもう、盤上の話だけで戦争の答えを人に言うことを
今後辞めると思う。

ただもっと頭ごなしに言うことにする。
どんなことを考えるよりも前に、まず戦争やめろよ。
人を殺すのをやめろよ。
衣食住を奪うなよ。
どんなイデオロギーか知らないけど、
人の歴史は争いだとか理屈めいてごねるけど
僕たちは飯食えて、ネットや居酒屋で議論して
明日を保証されて寝れる。

そうじゃない、争いの土地に選ばれた人たちは
ただ生きることすら当たり前じゃなくなってる。

当たり前に生きてるけど、当たり前のすぐそばに
死の匂いが付き纏ってる。

彼女の言葉には、それを感じる重さがあった。
僕はそんな当たり前の世界を、文字の世界だけだと分厚い本の1ページ並みの薄さのように考えてしまっていた気がする。

だから、僕の答えは、無責任だけどもう考えない。
ただ、戦争やめてくれよ。それだけを言う。
その無責任な声が世界中で増えて、責任ある崇高な人に
この無責任なタスクに責任を与えて
絶望しながら戦争をやめさせたい。

そして、まずは安心できると、明日も何も考えずに生きてはいけると
そう思える世の中に戻してほしい。

僕は、1ミクロンでも良いから、コビーのように
そう世界で無責任に叫びたくなった。



どうしても残しておきたくて、文章を起こしました。
ヨーロッパは、争いが身近すぎます。




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