3.”無駄”の哲学
こんにちは。
遅ばせながら新年あけましておめでとうございます。
今年も気まぐれに投稿していきたいと思うので、引き続き目を通していただけたら幸いです。
だいぶ前回の投稿から少し日が開いてしまいました。
理由は単純明快です。
正月、実家で完全なオフモードに入っていたからです。笑
まさにイラストのような生活をしていました。笑
地元では外出もほとんどできなかったので、家でまったりと過ごしていました。
今回家で過ごすにあたって新たに掘り起こした趣味は、パズルでした。
1000ピースのパズルに夢中で取り組み、個人的には充足した時間を過ごしていました。
もともと小さいころからパズルが好きだったことが影響し、ジブリ作品のパズル完成へ向けて今でも取り組んでいます。笑
さて、パズルに取り組みながらふと思ったことがあります。
僕が夢中になっている「パズル」は、
他の人からみたら無駄のように感じられるのかもしれないということです。
たしかに、お金もかかりますし、なにより完成までには膨大な時間を費やします。暇人のすることに間違いはありません。笑
しかし、僕自身は全く無駄だと思いません。
むしろこれ以上ない幸福感すら感じているくらいです。
それは、「集中力を養う」とか「観察眼を身に付ける」といった教育的な効果に主眼を置いているわけではありません。
単純に完成へ向けてパズルをはめ込むという行為が楽しいだけです。
ふと周りを見渡してみると、他人の目線から見ると無駄に感じることってありませんか?
僕が以前紹介した、「ぼーっと生きること」も人によっては無駄に思えることかもしれませんね。
僭越ながらその記事を添付しておきます。
「あの人無駄なことしてるなぁ」「なんであんなことしてるんだろう」
こんな風に他人に対して思った経験は必ずあると思います。
しかし、だからといってその人の行為が”無駄”であるという確証はあるのでしょうか。
一見すると”無駄”に思えることでも、その人にとっては快楽を感じる行為かもしれないし、有意味な行為である可能性もあります。
一歩間違えれば、テレビやスマホを見ることすら”無駄”と思う人もいるだろうし、睡眠がそれに該当する可能性もあります。
むしろ、”無駄”と感じているのは客観的な他人の視点です。
それって、あまりにも傲慢なことだと思いませんか。
”無駄”と思えることでも、その人がその人らしく生きるために必要なピースである可能性は大いにあります。
もしそうであるならば、他人が必要以上に介入したり、煩わしさを感じる必要はないでしょう。
普遍的に”無駄”に該当するものがあるわけではありません。
極論を言えば、”無駄”なことはないとも言えるかもしれません。
とはいえ、「もっとこうしたほうがいい」と経験則からアドバイスしてあげることは必要だと思います。
単純にその人が知らなかっただけの可能性もありますからね。
そのアドバイスを受け取って実践するかしないかはその人次第、というスタンスでいれば、教えた側も悪い気分にはならないでしょう。
結論。
”無駄”であるかどうかはその人が決めることだと私は思います。
このような考え方は相対主義な視点とも言えるかもしれません。
ですが、人の生き方は決まったテンプレがあるわけではありません。
もし生き方にテンプレがあるならば、人生は何の面白みもありません。
「無駄かどうかわからない、でもやってみよう!」
「あー無駄だったかもなぁ~。少し改良してみようか」
そうやって自分の経験を拡大していくからこそ、その人の価値観が形成されていくんだと思います。
物事の”普遍”をあらゆる角度から検証する。
それが哲学の仕事だと思います。
もし、普遍的に”無駄”と言えるものが見つかったら、自分まで教えてもらえたら幸いです。
では。