歴史時代小説を書くために 其の五(流行と衰退②~犬追物)
こんにちは。その五です。
さて、前回は、その時代にたいへん流行していて人気があったものが次第に廃れて過去のものになってしまう一例として、「連歌」を取り上げてみました。今回は「犬追物」のお話をしたいと思います。
「犬追物」は、中世の歴史で習う(のかな?)ので、御存知の方も多いかと思いますが、流鏑馬(やぶさめ)などと違って現代では全く行われないものなので、知る機会もなく興味・関心もない方が大多数だと思います。(もっとも、犬を家族のように飼っている人も多数ある現代でそれをやったら、動物虐待の犯罪行為になるので捕まっちゃいますね)
犬追物は、武士の武芸鍛錬として行われていた「騎射三物」の一つで、鎌倉期には武芸の中心として幕府が奨励し、各地で盛んにおこなわれていました。(他の二つは「流鏑馬」と「笠懸」です)文献上記述されるのは承元元年が最初なので、おおよそ鎌倉期から室町期の間に、武家の訓練と娯楽(スポーツ?)としておおいに流行り、諏訪大社などの大神社では神事としても開催され、見物客で賑わっていたようです。日本各地の「犬射馬場」、「乾馬場」、「弓馬場」などの地名は、そこで犬追物が行われていた名残だそうです。
太平記に依れば、北条得宗家最後の当主、執権北条高時が闘犬や犬追物に熱中して政治を顧みなくなったことが鎌倉幕府滅亡の一因であるとされています。(そういえば、ジャンプ漫画「逃げ上手の若君」の最初の方で、犬追物がエピソードの舞台として採用されていました。作者えらい。アニメも面白い!)
犬追物は、40間四方の平坦な馬場に150匹の犬を放ち、36騎(12騎が一組)の騎手が所定の時間内に何匹犬を射たかを競う競技です。射るといっても犬を射殺すわけではなく「犬射引目」という特殊な鏑矢を使います。ただ当てればよいというわけではなく、打ち方や命中した場所によって判定が変わる共通ルールがあったようです。
わたしが犬追物で興味深いと思うのは、その娯楽的性質と開催作業のリアルな実態です。
室町期でいえば、当時、細川京兆家や山名、畠山、斯波、土岐、伊勢など羽振りのいい家はこぞって開催していたようですが、足利将軍家が開いた公方犬追物には犬千匹を使い、見物に訪れた相国寺蔭凉軒(将軍の知的助言者のような機関)の僧らが「天下総覧なり」と称賛したとの記録もあります。
馬場の周囲には桟敷席も設けられましたが、席銭を払えない凡下の民はその周りで観覧し、なかには松の木に上って見物する者も多数いたとか。その時に雲集した見物人は一万人を超えたそうです(ホントかな?)。とにかく、犬追物は一般大衆にとっても一大行事であり、古代ローマでいえば開催目的は少し違いますけど(「パンとサーカス」のサーカスの方ですね)グラディエーターの闘技会、現代でいえば大規模スポーツ大会かフェスみたいな娯楽的側面を持ったイベントであったと思われます。
犬追物を開催するには、当然ながら半端ない手間を食います。馬場の周りに俵を埋めたり桟敷席を組み上げたりといった設営がたいへんなのはもちろんですが、何といっても一度に百五十匹以上の元気な犬を用意しなければなりません。その作業を専業的に申しつかっていたのは、いわゆる河原者(被差別身分の者)であったようです。
当時、京では、刑吏、清目(きよめ)〔掃除〕や井戸掘り、作庭などをする河原者がたくさんいたようですが、それらのほとんどが、公方家をはじめ在京の守護大名や大寺など、権門の支配に組み込まれていました。河原者たちは、○○家河原者という身分で普段は屋敷の清目や土公神(どくじん)の祟りがあるような土いじりの仕事をしていましたが、犬追物の日程が決まると、十日前からみな総出で準備に入り、広い馬場の周りに土俵を埋め、竹垣を据え、その外側に梯子で上がる桟敷と仮小屋を作り、さらにその外周に幔幕を張ります。
そしてそれらの作業とは別に、野犬の捕獲に当たります。捕獲する犬は傷つけてはならないし、痩せ犬でもいけない。総出で捕って回っても、いちどきに百五十匹はなかなか難しい。そこで、各家の河原者たちは、日頃それぞれ離れた場所に犬飼い場を作り、数十匹の犬を飼っていたようです。
ちなみに、犬は上古の世から飼われていましたが、平安京では身分の上下に関わらず飼う者が多い上、多産であるため、野犬もたいへん多かったようです。大人はともかく、まだ幼い子にとっては危険な存在であるため、捕獲や屠殺の役割を担ったのが河原者たちであったと言われています。
とにかく、慶事・神事でもあり、人々の耳目を集める人気の催事であった犬追物ですが、戦国期を過ぎると急に人気を失い、開催されなくなります。
原因は、鉄砲の伝来・普及によって弓箭の武芸が廃れたこと、伝来の弓術作法を守っていた守護や守護代の家が争乱によって絶えたこと、などです。江戸期まで作法を継承できたのは、島津家、細川家、小笠原家(武家故実、弓術や馬術だけでなく、礼儀作法で現代まで流派名が残っている小笠原流ですね)のみでした。
近代に入った後では、明治12年と14年、上野公園で島津忠義が明治天皇の御前で天覧演武として(12年の興行には、グラント米国前大統領も隣席)、明治24年には同じく島津忠義が、訪日中のロシア皇太子ニコライを鹿児島の仙巌園に招いて犬追物を披露しています(側近はこの催しを嫌悪したものの、ニコライは大喜びだったそうです)。
記録に残る犬追物としては、これが最後の催しとなりました。
犬追物について徒然なるままに書き出しましたが、こういった、現代ではあまり顧みられることのない事象や流行について小説のなかで取り上げてみるのも、既視感のないエピソードを創作する小ネタとして面白いかな、と考えた次第です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
それでは、また。
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