「自立」を考える
そもそも私は自我がへにょへにょなのである。
幼稚園の頃「大きくなったらなりたいものを書こう」と言われて何も思いつかず、周囲で人気だった「およめさん」に乗っかった。高校生の時は「自分の人生の年表」を書けと言われて、そんなもん就職できるかも分からず結婚してくれる相手が見つかるかも分からんのに「○歳で結婚、○歳で出産、○歳で課長に昇進」なんて図々しく書けるかとふてくされ、白紙で提出して担任に怒られた。
「いつか何か見つかるだろ」と鼻ホジしている間に云十年が経ち、ここに至ってようやく自分の芯がへにょりんであり、どうもこれは変わらないぞと気がついた。遅きに失するが、大器晩成と言っておいてほしい。泣いちゃうから。なお、へにょりんな上に「自分の状態や行動がOKであるか否か」の判断もできないので、他人の評価に委ねるしか術がない。他人が良いといえば舞い上がり、駄目といえば崩れ落ちる、紙人間なのである。
だが紙人間であってもどうにか人のふりをして、食って寝て生きていかねばならんので、立ち上がらなければならない。そのために突っかい棒が必要になる。そしてそれが無いと立っていることができないので、突っかい棒に「依存」することとなる。
10~20代は主に「恋人」「酒」「仕事」に依存していた。要は不運な恋人を捕まえては真正かまってちゃんとなり、逃げられては酒浸りとなり、あとは他にすることがないので仕事をしていた。そんなやつがよく伴侶を得て子供4人のおかーちゃんになれたなと思うが、まさに夫という生涯の突っかい棒を得たことで自分の足で立つことを放棄できたし、子供4人を生み育てることで極限まで「何かに使わなければならない自分の時間」を減らすことができたので、今の私は至極快適なのである。
しかも生まれて初めて、依存対象から依存されている。子供たちは「お母さんお母さんお母さんこっち見てお母さん一緒に遊んでお母さんだっこしてお母さんお母さん」と片時も離れず、気が狂いそうなほど狂おしく私を求めてくれる。求められすぎて時々MK5(マジで気が狂う5秒前)。「お母さん世界一大好き」と言われれば「お母さんもよ」と微笑んで抱きしめ、子供大満足、優しい理想のお母さん、100点満点大優勝、なんて素晴らしき世界線。
さて先日、我が息子(双子の弟、小3)と娘(小1)が、児童館対抗の卓球大会に出場した。接戦だったが、残念ながら二人とも敗退。試合の後、娘は私のところに来たのでお膝に抱っこし「頑張ったね、かっこよかったよ、相手は2年生だったのにすごいよ」と励ました。息子の方も、さすがに抱っこはしないけど慰めようと思ったが、彼は「かーさんお茶お茶!」とペットボトルのお茶を受け取るとぐーっと飲み干し、背を向けて涙をぐいっと拭いて、あっという間に友達のところに戻っていった。そして「頑張れー!」と応援に加わったのだ。
分かってる。分かってるともさ。
おかーちゃん悲しかった悔しかった痛かった、えーんえーんと泣くのも、おかーちゃんが抱っこしてぎゅーっとするだけで痛みや悲しみが消えるのもごく小さい頃だけ。
君らはこれから、おかーちゃんより自分の周りの世界の存在が大きくなっていって、その世界で自らの足で立つんだなあ。
そうなってほしい。君らには芯を持っていてほしい。紙人間にはならないで。自分を好きになって、自分の好きなことを大切にして。そう願って育ててきた。
でも寂しい。おかーちゃんがしてあげられることって少ないな、もっともっと、ずーっと苦労や困難から遠ざけて守ってあげたいのにな、そう思ってしまう。
だがそれを実行すると子供たちにどろどろと絡みつく、所謂子離れできない「毒親」になってしまう。それは避けたい。というわけで、どうやら私はまた新しい突っかい棒を探さねばならないようなのだ。夫がいるので、まあ大部分は寄っかかっていられるのだが、それ以外に支えてくれそうな何か。でないと10年後には、台所の隅で一升瓶を抱えて暮らす羽目になる(それはそれで幸せかもしれないが)。
で、私には「何かしら書かねばならない」という焦燥感が常に付きまとっている。まともにできることが他に何もないからだ。だがへにょへにょの自我と、枯渇した想像力からはもちろん物語なんてものは生まれてこないので、せめて僅かながらでも己の頭を使って、身近なことについて考える文章でも書いてみようと思い立った。
これが新たな突っかい棒になってくれるのか、はたまた次回は何を「考える」のか分からないが、たまにお付き合い頂けたら幸甚である。