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京都、原点回帰、原風景ってなんだろう?

ご機嫌よう。

毎日予祝したい、ときのにわ、Nona です。


NYに10年ほど滞在中、日本に8年間帰ってこなかったことが、私の心を日本的なものへの渇望に導いた。日本のアニメ中毒(!)から抜け出た時に、私は小津安二郎監督の『東京物語』に出会い、日本的な視覚的美学の追求が始まりました。


映画はかねてから好きだけれども、そのストーリー、テーマ、または視覚的美学に興味を持てないと、私にはその映画を最後まで見ることが難しい。(もしかしてADHDかもと思ったけれども、そうではないみたい)しかし、気になる映画を何本も観続け、気がつくと数日立っているなんていう映画の日々がたまにあります。
日本の白黒時代の映画は、私が最後にたどり着いたカテゴリー。(モノクロというだけで以前は眠くなってしまった。私の目は色から情報を得ることに慣れていた)私は小津安二郎監督の東京物語、そして黒澤明監督の『羅生門』と『白痴』を観ました。これらは日本の素晴らしい古典映画であり、それらは私の魂の渇きをとても潤してくれました。それらはNYで当時の私が欲していた心の風景のようでした。


NYは私の第二の故郷だと感じていたにもかかわらず、NYに住んでいて日本の文化をそれほどにも切望したことに驚きました。現在は日本に戻り、私の心の原風景がいまだに多く存在すると感じる京都に住んでいます。もしあなたの原風景はどのようかと聞かれたら、あなたはそのような風景を想像しますか?


私の初めての原風景体験は、高校生の時、イタリアのフィレンツェからアッシジへ向かうバスの中で、その地域の広大な野原と山、家並みを見て、私は初めて懐かしい、という感情を抱いたのを覚えています。


京都にはいつも鞍馬山と鞍馬寺に訪れるのが大好きで来ていたけれど、(鞍馬寺は魅力的な起源(宇宙的な)を持っています)私は京都の街並みはあまり知りませんでした。日本に帰ってきた時に伝統的で日本的な家屋に住みたいと思った時に、京都にはまだ町屋が残っているいことを知り、すぐに京都に引越ししようというインスピレーションを得ました。


私はすぐに素敵な居心地のいい町屋を見つけ、京都の生活をはじめました。京都には世界遺産が非常に多いため、街の景色を保護するために11階(31メートルまで)を超える高層ビルを建てることができません。この広大な空は私の心に風をふき、心のスペースまで作ってくれました。
私が一番驚いたのは、鴨川の水の美しさと透明度です。鴨川は街を南北に流れ、川底を見ることができ、クリスタルのように本当に透明です。鴨川には本当に鴨たちもいて、春には様々な種類の渡り鳥も見られます。
驚くことに鴨川はレストランやバーがたくさんある街の中心を流れていることです。私は川に魅了され、川沿いを自転車で走るのがとても好きです。タクシーの運転手さんに聞いたところ(京都の運転手さんは観光案内ができる方がとても多く、地元のいろんなお話を伺える)、地元の人々が川を綺麗にしようと長い間取り組んでいたので、今のように綺麗になったのだと教えてくれました。


私は京都の人々が街の景観をとても大事にしていることに感銘を受けました。京都には毎年多くの観光客が訪れ、有名な観光スポットに行こうものならいろんな言語でこんにちはが言えるくらいです。それにはただ世界遺産が多くあるというだけではなく、人々の京都の景観を美しくしようという努力があってこそなのだと思います。
私が京都で原風景を感じた場所は嵐山です。嵐山には有名な竹林がありますが、そこではなく、隠れ家のようなカフェを訪れた時です。そのカフェは、長いこと僧侶の住まいでしたが、誰も住まなくなり、カフェのオーナーがその古民家にひかれ買い取ったとのことです。以前はプライベートサロンとして機能していたようですが、現在はカフェとして一般の方にも公開していると、そこで働いている方に教わりました。私は中に入るのがとても楽しみで、実際中に入って見ると、数々の美しい骨董品があふれ、私の期待を裏切りませんでした。中には江戸時代(1603〜1868)またはそれ以前に作られた壁画や花瓶があり、ちょっとした美術館のようでもありました。
私の他には誰もいなかったので、私はリラックスして何世紀もの歴史を持つ空間、家具、オブジェクトについて思いを巡らせていました。私は燻された茶葉で淹れたお茶をいただき、座って外を見ると庭と竹林があることに気がつきました。私はここでも、懐かしい想いを抱き、原風景を感じました。
私は、イタリアに行った時にそれが初めての訪問であり、日本人であるにもかかわらずなぜ懐かしいと思ったのかと、疑問に思う。記憶が、私たちのDNAに絡み合っているのか、それとも魂の中にホログラムの引き出しがあるのだろうか。この感情は、個人的なものであれ、普遍的なものであれ、とても不思議。


映画やメデイア、または漫画の中で描かれたイメージを、潜在意識が原風景と認識するというのもあるのでしょう。それも一理あると思うけれど、私の経験では、それを見た時には、より深いところで心に響きました。まるで私の中の何かがそれを覚えているかのようにです。それはデジャブの感覚に似ているけれど、デジャブの時には感情がほとんどなく、感覚的な視覚的記憶と捉えることができます。ジークムント・フロイトは、デジャブは夢のシーンだと言うように、私のほとんどのデジャブ体験は、夢と関連しているように記憶しています。


夢はまた興味深いテーマの一つですが、次回にするとして、ここでの私にとっての原風景とは、非常に個人的であり、感情に結びついていて、懐かしさの引き金となる風景だと思います。私たちの脳内の化学反応はデジャブを説明するかもしれませんが、この原風景の気持ちはどうなのでしょうか?もし私たちの集合的な潜在意識も脳内の化学反応によって定義される場合、原風景を経験する個々の違いの要因は、DNAによってもたらされるのだろうか。
もしそうなら、そのような考えにはとても浪漫を感じます。私には未知の、何か、ですが、DNAがそれを覚えているとは。または、輪廻、過去生が事実であるなら私たちの魂にそれらが刻印されているのでしょう。何れにせよ、私たちがそのように考えることができれば、私たちの経験が素晴らしいものになると感じます。もちろん、楽しい思い出だけではなくその反対もありますが、ここでは私たちが与えられた人生を祝いたいと思います。私は泳ぐことをやめられない魚のようなので、また別の土地に移動する時が来るかもしれません。なので、京都の滞在を楽しんで、美しい京都を維持すために努力している人々に感謝したいと思います。

あなたは原風景について、どう思いますか?


それではまた次回。


意識の向こう側で会いましょう。

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