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映画『整形水』とルッキズム

この映画を観るとき、まず「ルッキズム」に直面すだろうという覚悟が必要だった。
タイトルからも、テーマからもそれを取り扱った作品だ、ということは明らかであったから。

『整形水』を見始めてまず、私は少なからずダメージ喰らった。それは、部分的なルッキズムの糾弾に対してだ。

私は人間の目が好きだ。
人間の目が、瞳が、その人の表情を映す様が好きなのである。「目は口ほどに物を言う」とはかくありき、映像作品でも「目の演技」に惹かれることが多い。

しかし、『整形水』では「君の瞳は綺麗だ」という台詞がある。それは明らかに外面的な、「見た目」にフォーカスした言葉であった。
「目が好き」というのも「コレクター的な側面のルッキズムでしょう?」という思想のナイフが飛んできて、大打撃である。
目の表情が好きなのであって、けして美醜を判断していたわけではない。と私は強く抗議したかったが、だがしかし、そんなことは「判断される側」からしたら知ったことではない。反省。


それはそれとして、顔立ちに関する他者の美醜、本当に心底私の価値基準にない。基準がよくわからないのである。「あの人格好いいよね」「あの芸人は見た目がよくない」などあるが、いまひとつピンとこない。
格好いい、かわいい、醜いを人にうまく当てはめることができない。どちらかといえば、性格の美醜のほうが分かりやすい。
顔が人間を構成する一つのパーツだということは理解してるが、それに優劣つける必要を感じない。それが全てではないし、顔立ちで付き合いを決めてないからだ。

補足すると、化粧とか整形を冷笑してるわけでは決してない。自分の望む形に、自分が好きな形に化粧や整形をすることは、一種の素敵な自己表現だ。私たちが文字を書くように、絵を描くように、あなたがあなたの顔で自己表現をすることを、私は尊重している。
そのアイデンティティの表現に優劣が付くことに対して疑問を持っているのだ。

「目が好き」というのは、再掲になるが感情が現れるから好きなのである。形や色とかで判断しているわけではないし、それに好みがあるわけじゃない。優劣はない。それを「部分的なルッキズムでしょ?」と誤解されるのは嫌だったのかもしれない。


とはいえ、人間が容姿に優劣つけたがるのは身をもって知っている為、如何ともしがたい。

私には兄妹がいる。そうすると、それはもう目に見えて比べられる。
私は、妹より容姿が劣っているを永遠に言われてきた。親戚や、その時周囲にいた大人に。

「妹ちゃんはかわいいよね」

「妹ちゃんは素敵な服を着てるよね」

「妹ちゃんの指は、ピアノを弾くのに向いてるよね」

「妹ちゃん可愛いよね。全然似てない」

学生の時、私は同世代より頭一つ分くらいタッパがあり、太っていた。手だって子どもみたいなふわっとしたシルエットだ。

一時期、機能性ディスペプシアで極端にごはん食べられなくなった時期があった。高校二年生から大学二年生のあたりまでの期間だ。食べられなくて、急激に痩せてしまったのである。不健康だ。

そうすると今度は、こう言われた。

「やせてるとかわいいね」

「妹ちゃんは昔から可愛かったけど、あなたもかわいくなったね」

成る程。

彼らは褒めたつもりなのだろう。
しかし、あまりにも多くの人からこれに近しいことを言われた。

容姿を嗤われることは、他にもままあったが、それにすべての自我を喰われなかったのは不思議だと思う。


ここで面白いなと感じたのは、かつての私はこの美醜の視線に対して「こっちをみるな!」「みないで!」「みるな!!!!」と世間に対して恐怖したのだが、『整形水』は「こっちをみろ!!!!!」で崩壊していくところである。

主人公が「整形水」を使ってから、「見られている」と恐怖する描写が存在するが、しかしそれはすぐに「私がきれいだからみんな見ているんだ!」に変わるところに、この物語の美への執着が表れていると感じた。

主人公が美醜に執拗なまでにこだわったのは、あの子の周りの人間たちが理不尽に、不躾に美醜で態度を変えてきた要因がかなり大きい。

周りだけではなく、「美、そうあれかし」とする社会も彼女の人格形成や行動を狂わせる一因である。
それが顕著に現れているのが、テレビショッピングで美容美白スタイルアップが強調される描写である。あれは「美醜を先導する社会」のカタチなのだろう。

さて、ルッキズムに関してはタイトルからして覚悟が出来ていたのだが、ラストのシーンでは別の怒りがし怒髪天を衝いた。

連続殺人犯、許せるはずもないのである。
あの男を許す事が出来ないのは、対象を「選んでる」からだ。

綺麗な目も綺麗な鼻も、男女関係なく無作為じゃなく「女性」を厳密に正確なまでに選んでいる。自分が反撃されないであろう対象を選んでいて、許せなくなった。

美にこだわるなら男女関係なく襲うだろう?!そうじゃないなら、やっぱりそれは女性を害することを目的とした犯罪手段なのではないか──

と、ルッキズムとはまた別の怒りに支配されたところで、この物語は幕を閉じる。

現代社会においてかなりセンシティブな題材であったが、挑戦的であり、社会全体によるルッキズムにも糾弾的であったと、感じる作品であった。

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