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「人生の壁」は超えずに楽しめ

【超訳】人生には大小さまざまな「壁」が存在する。しかし、それらは壊すだけが能ではなく、時には寄り添い、共存しながら生きるヒントを与えてくれるものでもある

人生の壁 養老孟司
超訳まとめシート

今回は、養老孟司さんの著書『人生の壁』をもとに、「子どもの壁」「青年の壁」「世界や日本の壁」「政治の壁」「人生の壁」という、大きく五つの視点から人間社会や個人が抱える問題を読み解いてみたいと思います。

一見、学術的で難しそうなテーマですが、そこに隠された“自然体”の捉え方や、柔軟でユーモアもある語り口が、私たちの日常に深い示唆を与えてくれます。とりわけ、養老さんが繰り返し強調するのは「自然とどう向き合うか」という問い。その自然とは、環境だけでなく「自分が予想しえないもの」としての日常や他者の存在も含まれます。

ハラスメント問題を見つめるうえでも、「壁」という概念は大きな示唆を与えてくれます。被害者と加害者の間にある壁、社会と個人の間に横たわる壁。それらは排除されるべきものと見られがちですが、必ずしも壊せばよいとは限りません。むしろお互いを知り、尊重し合うには、その壁が必要なときもある。本書を通じて、その柔軟な捉え方を再考してみたいと思います。

なぜ「子どもの壁」は乗り越える必要がないのか?

まず指摘するのは、子どもに対する大人の過剰な介入です。たとえば「子供に手をかけたほうがいい」という思い込みは一見正しそうですが、養老氏はそこに潜む錯覚を強調します。兄弟姉妹が与える自然な刺激が、実は最大の教育効果を発揮するというわけです。これはコホート研究が示す幼児は褒めて育てるが正解という定説とも通じます。

さらに、本書は「お受験」が不要な理由を「時代が変わってもヒトの脳は進化していないから」と述べています。脳自体の仕組みがそう大きく変わらない以上、結局はやる気のあるときに学ぶのが一番効果的なのです。ゲーテが指摘する「学ぶには時がある」という言葉を思い出すと、いかに無理強いの教育が非効率かがわかります。

そしてここでの核心は、子どもは自然の存在だということ。勝手に育つものを無理やりコントロールする発想こそが、壁を生んでしまうのです。本書が強調するように「大きな夢」を持つ必要がないのも、同様の理由。三年寝太郎やわらしべ長者の成功例のように、コツコツ目の前のことを片付ける中で到達する境地こそが本質。この姿勢は、大人にとってもどこか気持ちを楽にしてくれる考え方ではないでしょうか。

青年期の迷いは贅沢なのか、それとも生きる動力か?

青年期に訪れる不安や迷いを、多くの人は“一刻も早く乗り越えたい壁”と感じるかもしれません。しかし、養老氏は「今の人の不安というのは随分と贅沢」と断じ、資本主義の終焉すら健全な状態に戻ったと解釈しています。これは逆説的に、社会が豊かになったからこそ不満や不安を抱え込む余地が増えた、という見方です。

興味深いのは、「自然は嘘をつかない」というフレーズ。私たちがどれだけ大きな不安を抱えていても、最終的には自分の体や環境との関係性に立ち戻ることでしか、本当の安心を得られないのかもしれません。

青年の壁をどう扱うかの要となるのは、「体力があるうちに煩わしいことに関わったほうが幸せ」という提言に象徴されます。めんどうを避けるのではなく、あえて飛び込むことで自分の“輪郭”を知る。これはハラスメントの問題を検討するときにも通じる視点です。私たちは衝突や対話の煩わしさを避けがちですが、その先にこそお互いを理解する手がかりがあります。

また、「安易に準備をしないことが大事」であることも大事な教えです。人生とは、予期しないことが連続して起こり、それに対処するプロセスの繰り返し。確かに、完璧な準備をしようとするほど、かえって思わぬ事態に戸惑うことが多いのかもしれません。青年期の不確かさという壁は、変化を楽しむ柔軟さによって乗り越えるのではなく、むしろ「受け流す」ことで突破口が見えてくるのかもしれません。

「世界の壁」「日本の壁」は何を映し出すのか?

注目すべきは、「世界の壁、日本の壁」と題されたパートです。ここでは、グローバリゼーションと環境破壊が西洋思想の負の側面から生じたと指摘され、あらゆるものを標語で括ってしまう危険性が説かれています。たとえば「生物多様性」という表現さえ、自然の本質を単語でまとめることの難しさを覆い隠してしまうということなのです。

一方で、日本社会の暴力支配の伝統が紹介されます。武力・暴力を背景にした支配階級が、あまり金持ちでなかったからこそ行使を抑えられたというのは、実に皮肉めいた話です。戦後、家制度が急速に崩壊し、墓や先祖とのつながりが途切れる中で、個人が顕在化してきたのは周知の事実。その結果、常に「今」しかなくなり、歴史的な継続性を感じにくい時代に突入しました。

ここから浮かび上がるテーマは、人が集まること自体に意味があるにもかかわらず、個人化が進むと不安が増してしまう矛盾です。ハラスメントにも共通するのは、不信が広がればコストが増えるという点。では、その壁はどう扱えばいいのでしょうか?本書は、ひとつの正解を提示するというより、私たちが「自分たちの常識を疑う」ことの必要性を教えてくれます。

「政治・社会の壁」を越えるいい加減さとは?

大量消費を前提にしない社会を構想するというのは、ある種の理想論に聞こえますが、要は「どのくらいの生活環境があれば、人は幸せに暮らせるのか」という問題と直結する話だといいます。

日本人が得意とする空気を読む術も、過度に活かせば同調圧力となり、過度に排除すれば分断を深める。社会から不純なものを排除しようとすると、かえってハラスメントやストレスが増大する可能性があるのかもしれません。

この視点は、お金がないから不機嫌になるのではなく、お金が基準になってしまったから機嫌が左右されるのだという指摘にも通じます。だからこそ、「まずは一人一人が居心地のいい状況について考えること」が重要なのです。これは職場環境の構築にも言えることで、“いい加減さ”や“ゆるさ”の余地があるほうが、逆に人間関係はうまくいく場合があるといえます。

いい意味であきらめる。それが「人生の壁」

社会問題は単なる事実であり、完璧な解決策があるわけではないからこそ、人は怒り続け、もがき続ける。そんな状況を「しょうがない」と受け止める心の置き場が、実は最も大切なのではないか。これが本書が伝える大きなメッセージのひとつでしょう。

社会問題はあくまで事実であって、感情的になっても簡単には解決しないもの。怒りが続くのはそれだけ問題が複雑で、いまだに落とし所が見つからないからです。「しょうがない」と受け流すマインドも、ときには必要。

人生相談で養老さんがよく答える3つの言葉があります。「とらわれない」「偏らない」「こだわらない」。中世の修道院で好んで使われた「メメント・モリ(死を想え)」「カルペ・ディエム(今日を精一杯生きろ)」という対の言葉も示すように、死を意識するからこそ今日を大切に生きられるのです。

さらに家を持つ、何か背負うものを持つなど、責任や負担があるからこそ人は深みを得られます。他人にわかってもらうことを前提に期待しすぎないことや、「合うかどうか」を重視する態度も大事です。体力もまた資本。衰えてからでは、学びも我慢もききづらくなるからこそ、早めに自分自身を整えておきたいものです。

壁は破壊よりも共存の対象として捉える

『人生の壁』は、一見すると「壁を乗り越えるテクニック」が学べる本かと思いきや、そうではありません。むしろ壁をどう意識し、どう共存するかが人生の鍵だと示唆します。子どもの壁、青年の壁、世界や日本の壁、政治や社会の壁、そして人生そのものの壁。どれも無理に壊そうとするのではなく、受け流すことや、逆手にとって楽しむことによって活かせる場面があるのです。

雇用クリーンプランナーで考えるなら、私はこの発想をハラスメント対策にも応用できると思っています。しっかりと線を引き、徹底的に排除するだけでは、潜在的な対立が深まるケースも少なくありません。むしろ、なぜその壁が生まれ、どんな背景があるのかを考え、場合によっては「ここに壁があるからこそ互いを理解できる」と捉える柔軟さが、真の解決につながる可能性を秘めています。

では、あなたの周りにはどんな壁があって、どんなふうに受け止められそうでしょうか?壁はしばしばネガティブに捉えられるものですが、それがあるからこそ生まれる創造性や学びもある、そう本書は教えてくれます。ちょっと立ち止まって、「しょうがない」をキーワードに自分の状況や社会を眺めてみると、意外なところにヒントを見つけられるかもしれません。

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大田勇希|ハラスメントを哲学する
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