意志をもった有機物の交わり
先のことなど誰にもわからない。しかしわからないことを、さも知っているかのように話す人がいる。それはなぜか。かつて自分が経験した事実があって、それが同じパターンで発生すると信じているからだ。へたに先を予測する習慣が身に付くと、結果として何も新しいものは生まれない。要するにかつての手法から外れない方法でしか対応できないから、結果として新しいものが生まれない。2度目はないのである。
果たして織田信長はどういう思考回路だったのだろう。楽市楽座の経済自由化政策、キリスト教など外来宗教公認、木下藤吉郎の人材登用など、その新機軸はまさに評価されるものだ。しかし彼とて確信があったわけではないだろう。しかも下克上の世だとはいっても依然として旧来の権力構造が存在し、軋轢もあったことだろうと想像に難くない。当時の反抗勢力は並大抵のものではなかったはずだ。それでも信長は実行した。
先のことなどは何もわからなかったはずだし、こうなる、という嘘も言わなかった。つまりやるしかなかったわけだ。このままでは自分の思うような展開にならないからやっただけで、結果として世の中の流れが新しくなっていったのだ。
私たちが考える“これから”などというのは、天下布武を唱えた信長にくらべれば小さなものだが、世の中は変わらなきゃの大合唱。改革の叫び声は高いが、中庸なものに終息していきそうな感じがしてならない。
要するに哲学がないからだ。なぜこれをやらなければいけないか、という目的がないといってもいいだろう。高速道路が作られなくなったら何がいいのか。環境問題が解決したら何がいいのか。インターネットが発達したら何がいいのか。どれもこれも“賛成”の声は聞かれるが、それが私たちや地域、社会、地球にとって何をもたらすかについては、答えをもっているわけではない。そういう根拠のない“未来”が多く語られすぎていて、一方で現実と折り合わず、泣いている人も多いことだろう。
いままでの手法を信じ、それを寸分狂いなく成し遂げたとしても、決して同じ結論にいたることはない。普遍性という近代の合理主義、科学主義のような無機質なものの組み合わせで世の中が動いているわけではなく、あくまでも人間という、意志をもった有機物が交わりながら生きているこの世の中なのだ。どう考えても未来など予測しようがない。
まさに社会の価値観が崩壊している様子が手に取るようにわかる。かつての時代を生きてきた人たちと、いま、この混とんとした時代に生きている人たちでは、未来に対する考え方が180度違うということだ。明日をもしれぬ日々ならば、信長のように新機軸を打ち立て、既存の考え方や価値観を否定することしかないだろう。
そこにあるのは、自分たちの社会や価値観を変えていく、という新しい考え方、そして確固たる哲学にほかならない。自己の欲望は、その新しい時代にとっておこう。私たちにとって大切なのは、いま、すべてをいったんリセットして、しっかりと悩み、考えることだ。その一見すると無駄なような行為が、結果として過去に引きずられることなく、まったく別の価値基準としてよみがえることになる。
反対する人も多いだろう。しかし信長が死んでも、結果として誰も時代の流れを止めることはできなかったし、むしろ助長するかのように、地滑り的に新しい時代が幕を開けた。平成の世の、新しい時代の幕開けはもう目の前にある。
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失われた30年と言われるが
何が失われたかを
明確に言える人は見たことがない。
慣用句のように使われるが
具体的に説明できる人はいない。
世の中はいきなり変わる。
少し前まで
ほんのちょっと前まで
当たり前だったことが
突如として変わり果てる。
本当は突然ではなく
人も社会も価値観も
少しずつ少しずつ
変化していることに
気が付かないだけだ。
どんなにコンピュータが発達しても
AIが進化したとしても
日々の流れを止めることはできない。
でも希望はある。
そんなことを気にせず
今を未来を
ジブンの思うがままに描けばいい。
それだけだ。
自分がコントロールできないことを
気にすることはないからだ。
むしろ
起きた出来事を
自分なりに意味づけして
楽しめばいい。
私ならできる。
あなたは?
#あの頃のジブン |46