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歴史快道を自転車で往く#18 東海道_掛川宿〜金谷宿篇

掛川といえば、私たち東海地域の人間からすると山内一豊公が思い出されます。糟糠の妻・まつとともに、秀吉から拝命した掛川城の城下町を整備した名君。関ヶ原の合戦では、徳川家康に掛川城を差し出し、合戦後には土佐一国の城主となった出世城です。NHK大河ドラマが懐かしいですね。

掛川市に入りました!

JR掛川駅から歩いて行ける距離にあったので、今回は出発前に掛川城を拝観しにいきました。周辺には掛川桜が美しく咲き誇っており、お城の美しさとのコントラストが素敵でした。

掛川城
お城の正門には徳川家と山内家の家紋が並んで飾られていました。

さてさて、少しゆっくりし過ぎましたので、先を急ぐことにします。

これから行く日坂宿は少し山間の通りに入るため、できるだけ日のあるうちに行かないといけません。ただ、いろんな見所もあるので、時間がかかるかもしれないと思いながら先を急ぎました。

宿場の入り口にある“七曲り”の案内板

葛川と新町の境に堀割があり、ここにかかる橋を渡ると門がありました。この門から西が宿場のなかです。ここから東海道は南に折れ、道がかぎの手にいくつも折れ曲がる新町七曲に入ります。七曲りは、容易に敵を進入させないための構造だと考えられます。七曲りの終点に、城下に入ってくる人物や物を取り締まるための木戸と番所がありました。番所には、捕縛のための三道具(刺股 ・突棒・袖がらみ)や防火用の水溜め桶などが備えられていました。
新町は、山内一豊が整備した城下町の東に発達した町並みで、元和六年(一六二〇)町として認められました。

事任(ことのまま)八幡宮

さあ、日坂宿に差し掛かろうとした時、荘厳な神社を発見しました。ここは枕草子にも書かれた由緒ある古社・事任(ことのまま)八幡宮。願い事が“ことのまま”に叶う言霊のお社といわれており、お祀りされている主祭神の己等乃麻知比売命(ことのまちひめのみこと)は、「言の葉で事を取り結ぶ働きをもたれる」神様、言の葉を通して人々に加護を賜う「ことよさし」の神様として大切にされてきたそうです。(引用:たびらい

県道415号の側道を入ると、そこから日坂宿。

高札場跡の案内板を横目に自転車を進めていくと、緩やかなカーブの先に集落が見えてきました。それにしても「下木戸跡」や考察場の様子などがしっかりと展示されていて、観光客や歴史マニアにはとても親切な感じがしました。

日坂宿 高札場
下木戸跡

江戸時代、宿場の治安維持のため、東西の入り口には木戸が設けられていました。
大規模な宿場では観音開きの大きな門でしたが、小規模であった日坂宿では川が門の役割を果たしていました。
古宮橋の架かる逆川のこの場所が「下の木戸(下木戸)」となっていて、江戸時代初期の頃までは橋幅も狭く、粗末な木橋で、いったん事が起こったときは、宿場の治安維持のために橋をはずしたとも伝えられています。
また、宿役人の管理下にあった高札場が木戸の機能を果たしておったという説もあります。

こんなにちゃんと宿が残されていました。あまりにも立派な建物だったので、自転車を降りて記念撮影しました。「萬屋」という木札がかけられていました。

「萬屋」と新調したイタリア製折りたたみ自転車

もっぱら庶民の泊まる旅籠でした。
間口が4間半(約8.2メートル)であり、幕末としては中規模の旅篭です。1階が「みせ」や「帳場」で、2階が宿泊のための「座敷」というごく普通の店構えです。

表の蔀戸(しとみど)は当時の一般的な店舗建物の使用であり、昼間は障子戸、夜は板戸の様は、日坂宿では昭和20年代まで数多く見られました。

日坂宿は嘉永年間に大火災にあい、萬屋の土間下からも当時の焼土がみられ、それを裏付けています。このことと建物内部の柱が差鴨居の多用によって、かなり省略されている点等から考慮して、嘉永から安政にかけて建築された建物と思われます。(引用:掛川市ホームページ

日坂宿を出る頃には、少し日も傾き始めていて、何やら嫌な予感がしたのですが…そう、この先にはついに東海道の最難関である“牧之原台地”が聳え立っているのでした。

これまでの長丁場に自信を持ち始めた私は、電車移動時に負担になる重量のある電動アシスト自転車から、軽量かつスタイリッシュなイタリア製の折り畳み自転車に買い換えたばかりだったのです。それが災いすることになろうとは。

そうです。この急な坂が私に試練を与えて…
続きは次回に。

#歴史快道を自転車で往く


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