歴史快道を自転車で往く#09
美濃路
03 名古屋〜宮篇
美濃路も愛知県に入ってからは住宅街に様変わりしており、歴史を感じさせる風情は少なくなったが、時折、クランクになっている道など、かつての面影を少しだけ感じることができました。
残念ながらお見せできる写真は少ないが、この地域の方でないと見ることができない古道を、少しでも知っていただければ幸いです。
さあ、いよいよ名古屋市内に入るにあたって、どうしても基幹道路とは違うところに入り口があるので、そこを探すのに一苦労。ああここかな、と手当たり次第に入ってみると、名古屋城へ続く道に辿り着いた。名古屋城へ続く道に辿り着きました。
私が通りかかると、地域の方々が忙しなく何かの準備をされていました。いつもより人が多く、のぼりも立っているので、きっとお祭りなんだろう。こんな都会でも住民たちが協力して、地域のコミュニティを盛り上げているのが嬉しくなりました。
名古屋城の西側、堀川留の近くまで来たら“たいこうはし”なるものがありました。これは豊臣秀吉にちなんだ<太閤橋>なのかと思ったら、正式名称は<大幸橋>で、戦前に造られた橋のようでした。それならば漢字で表記してくれればいいものを、勘違いしてしまいました。場所は名古屋城の月見櫓跡のお堀を挟んだ向かい側にあります。
少し進むと商店街が現れて、街の日常の賑わいが感じられるようになりました。かつてはここが正解や娯楽の中心だったのだろうな。郊外に住む私からしたら、何もこんな混雑したところに住まなくても、と思いますが、住民たちにとっては大切な故郷ということかな。
いわゆる“めいえき”の近くのオフィス街に入りますが、そこを流れる一本の川。川と言うか名古屋港から名古屋城まで続く人工的なお堀〈堀川〉です。
江戸時代初期に造られたこの堀は、当時の物流の大動脈であり、今でも木材関係の会社が軒を連ねていて、当時の隆盛を垣間見ることができます。そこにさりげなく現代風の石標が、垂井宿から続く美濃路の面影を伝えていました。
1603年(慶長15年)に尾張国の首府が清州から名古屋へ移転された(いわゆる清州越し)時に、堀川が開作され、その時架けられた「堀川七橋」のひとつである〈五条橋〉。そういえば前回の清州城の回にも同じ名称の橋がありましたが、清州越しの際に、その名称まで移転されたと言うから、清州に対する思いは強かったことが想像できますね。
現在の橋は1938年(昭和13年)に造られたコンクリート仕様ですが、風情を損なわないように、デザインや案内板など、人々が立ち止まって歴史を振り返る機会を設けています。
少し寄り道して時間がなくなりそうなので、早速、【宮宿】に向けて出発します。少しの間、都心を抜けていくことになるので、ご紹介するものがあまりありません😭
名古屋市西区から名古屋港まで続く市道、いわゆる江川線を進み、金山駅を越えて大通りを進んでいくと、急に都心にこんもりとした木々の緑が見えてきました。【熱田神宮】です。
さすがに恐れ多いので写真はありませんが、都会の中のオアシスとでも言うべき場所で、参拝に訪れる人は絶えません。
織田信長が桶狭間の合戦前に寄進したと言われる〈信長塀〉が現存していて、武将たちも苦しい時の神頼みだったのでしょうか?
陸橋のある大通りの交差点を渡った先の側道に、小さく囲われたスペースがあり、これが【宮宿】の案内板と石標でした。
石碑には
と書いてあり、古くからの交通の要衝であったことが窺えました。
いよいよこれから東海道を東に向かう自転車ツアーが始まります。お楽しみに!
--- 東海道(東)へ続く -----
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