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他人のことを批判できる立場にない
またまたさぼってしまった。特別、忙しいわけではなかったが、コラムのファイルを開く勇気が出てこなかった。少々緊張感が足りなかったと思う。反省。
さて、下半期に入り、仕事もプライベートも動きが出てきた。今週12日から某予備校の小論文添削が始まる。社会科学系で、しかもハイレベル国公立、私立文系の生徒が中心だとか。自然と力が入り、緊張感も湧いている。私が受験生だったころ、とてもそんなレベルをめざせる立場になく、現在、彼らに私が添削した答案が返されると思うと、身が引き締まる。
小論文とはもともと自分の社会観や世界観を問われることであり、文章のうまい下手よりもそこを大学としては見たいわけだ。当然、そのための対策は他の教科に比べて数段難しいと言わざるを得ない。なぜなら、過去の例はまったくあてにならないどころか、直前までその世界観を研ぎ澄ませていなければならないのだから。講師としてもどこまで彼らの世界観をフォローしてあげられるのか心配になる。
確かに講師の模範解答を見るかぎり、世界観というよりは具体的な現象が先行してしまうのは、学生への分かりやすさへの配慮ということかもしれない。出題される問題は非常に難解だ。こんな文章を日常的に読みこなし、しかも自分の意見をはっきり言える人がいたら、それこそ私たち大人はお手上げだ。それは“難しい”と思われる文章の根本的な主張、つまり評論されている内容をシンプルな形で抽出できるテクニックをもっていることになる。
しかしこういう人材が増えたら、とにかく社会のしくみそのものが変わってくるかもしれない、とひそかに楽しみにしている。それは最近の仕事のやりとりを通じて切実に感じる。つまりある物事を達成するためのアプローチが、まるで感想文レベルの人たちが多いということだ。自分はこう思う、はまだいい。自分がこう思うから、みんなもこれでいい、の発想に結びついてしまう怖さ。これが利益を追求する企業の構成員たる社員が、給料をいただいておこなっている業務だ。そこには緊張感のかけらも感じられない。
ただあるのは自分が自分の経験則で身に付けてきた価値観、世界観だけ。「気持ちがいい」「おしゃれ」を連発する彼らにとって、それを実現している人たちの世界観をまねしているに過ぎない現実。これが18、9歳に“論”じてこなかった人たちの姿だと思う。悲しいことに、私は彼らからお仕事をいただいていかないと生活できない状況にある。どれだけあがいても最後を見届けるまで関わっていかないと生活ができない。ということは、結果がどうであれお金をいただく私にも緊張感がないということになる。ただ、毎日を生きていくために。他人のことを批判できる立場にない、ということだ。
この矛盾をどうしていくか。コラムを1ヶ月休まずに書き続けたときの緊張感を、もう一度取り戻したい。そして書く、ということ追求することで、自分のこの矛盾を乗り越えてみたいと思う。それは人を単純に批判するだけではなく、どうしたら方向性を見いだしてもらえるか、どうしたら気がついてもらえるか、を考えていきたい。そして自分にはなかった何かを相手からももらうことで、いい仕事に結びついてくれたら、自信をもってまたお仕事をさせていただける。こうやって繰り返し自分のなかの矛盾とつきあい、単なる否定をなくしていくことができるかもしれない。さて、緊張感をまた呼び戻し、新たな課題と向き合うこととしますか。
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行っては戻り
戻っては進み。
こういう繰り返しをしている自分が懐かしい。
こうやって時に自問自答していることが
これからやってくるさまざまな課題と
向き合う際に自分なりの答えになっている
ことが分かる。
現時点では分からなくても
とにかく結論を早く出さないで
いろいろな角度から検証してみて
いい意味で中途半端にしておく。
つまり発酵するのを待っている状態にする。
そういう壺がいくつもできてくると
ある時突然その蓋が開いて
熟成した答えとなって降りてくる。
手間はかかるが
それなりの答えを出すには
それなりの時間がかかるということなのだ。
本文中に
「これが18、9歳に“論”じてこなかった
人たちの姿」などと偉そうに言っているが
私も長い年月を通じて会得できたことだ。
最後に
「人を単純に批判するだけでなく・・・」と
戒めのように書いているのは救われた。
私とて他人を批判できるような立場には
今以ってないのだから。
#あの頃のジブン |72