情けは人の為ならずの真理
あなたは他人に施しをしたことがあるだろうか。もしくは、誰かから施しを受けたことはあるだろうか。たぶん、その過多に違いはあれど、どちらもしたりされたりしたことはあっただろう。その時、あなたはどのような気持ちになったのだろうか。
私はこれまで多くの方に支えられて生きてきた。両親はもちろん、それ以上に利害のあるなし、もしくは損得を除外して、また金銭や物質的なことばかりではなく、精神的にも支えられてきた。もちろん、現在、こうしていられるのは自分自身の努力の結果であると思うのと同時に、周囲からの施しのおかげでこうして自分らしい生き方ができているのは間違いがない。
ただ、よくよく考えてみると、自分からの施しが具体的に何かを相手にもたらす、などと考えたことはない。むしろ、置かれた立場から手を差し伸べたことがあったが、それが思いもしない形となって返ってきたことに驚かされたことが何度もあった。相手に対する上から目線の施しではなく、お互いに対等な立場になって、やれることをやったという意識に関わらず。
このような関係は、どうやってできるのだろうか。無論、計画的に、作為的にできるものではないが、これを偶然の産物として捉えるのも何か不思議なものを感じる。というのも、その施し施されという行為が、自分の、そして相手の将来にとって不可欠な、心情的な財産になる大切なことならば、どういう形で受け入れ、施せばいいのかを知りたくなるからだ。
ある人に、人事異動の餞別として幾ばくかのお金を渡したことがある。本人にとって本意ではない異動ではあったが、将来、組織の中で重要な役割を果たすためには必要な経験であると思ったので、応援するつもりで手渡した。それがある時、その人から「自分が会社から求められた課題を達成するまでは、このお金に手をつけないことを誓いました」と告白された。小遣い程度の金額であったが、その時の封筒に入れたまま、自分のカバンの中に入れて持ち歩いているという。私としては軽い気持ちで、引越しや日々の生活の足しにでもなれば、くらいにしか思っていなかったが、それが困難な仕事を達成するための、ひとつのモチベーションになっていたとは思いもしなかった。
でも、そういえば、私もかつて、親会社への急な出向を命じられた時、先輩から渡された一枚の紙を今でも大事にとってあったことを思い出した。内容は具体的に言わないが、それは、ある有名なコピーライターさんが直筆で書いた原稿で、たぶん、オークションなどに出品すれば多額の取引になるのではないかと思われるものだ。今となっては、それをどのような気持ち渡してくれたのかは分からないが、もしかすると、私の渡したお金を単なる金銭として捉えなかった彼のように、当時の私も自分なりの理由をそこに見い出して、大切に持ち続けてきたのではないかと思う。
一人でいる方が気軽だし、気を使うこともなく、快適であることに間違いはない。ただ、自分という周囲に育ててもらった存在が、誰かを支援することができなくなってしまうことに対しては、申し訳ない気持ちになることもある。それでも、誰かに何かをしてあげたいという気持ちだけでは押し付けになるし、それをお返しされても今の私には何も言うことができないことにも気がついた。
そうか、情けを人にかけられるのは、目の前にある目標を達成しようとする共通意識を持った人だけがやり取りできるものなのではないか。そう考えると今の私にはその資格はない。ただ、これからでも何かを始めることはできる。これまでと同じことをするのではなく、これからできることを見つけて、他人に施せるようになれれば、またこのステージに戻って来れるのだ。
#いま時のジブン