請け負わないならば生み出せ!
少し前に一緒に仕事をした彼に会った。この4月からフリーになって、数少ない営業、すなわち私に対する売り込みだという。ああ、いつからだろうか、私が自分を売り込みしなくなったのは…。
フリーになった6年前、新聞広告の求人欄を頼りに、企画者を募集している企業を当たろうと奔走した日々があった。それが制作会社であり、広告代理店であり、初期の頃の私を支えてくれたクライアントだった。そして、目の前にいるのは、いつもの彼のひょうひょうとした姿ではなく、しっかりとスーツに身を包んだスタイルは、さながら新卒のういういしささえ感じられた。私は彼の差し出したファイルをのぞき込み、かつての自分の姿をオーバーラップさせていた。
私は売り込みがあまり得意ではない。そのときも偶然、2社目で仕事をいただけたり、誰かの紹介だったりと、運が良かったとしか言い様がなかった。強いていえば、競合“他人”がいなかったということだろう。元新聞社社員という肩書きも手伝ってくれたと思う。こちらが想像している以上に、私の実力を高く評価してくれたのだと思う。
その当時、パソコンすらろくにできないのに、企画書を作成します、といっていたのだから、相当な鉄面皮であったか、ものの道理を知らない人間だったのだろう。印刷のことや編集のことさえもよくわかっていなかったし、手当たり次第受注して、必死になってできる自分を演じていた様な気がする。人間というのは恐ろしいもので、知らない間にそれなりのテクニックが付いてきて、本当にできるようになるから恐ろしい。
だから何もそんな気合いをいれなくても、と思ってしまう。確かにこんなご時世だし、デザイナーは山のようにいるから彼も必死だろう。何かのきっかけがあるならば、それに乗っかっていきたい、と思うのも人情だ。しかし私にそんな引きあわせられるだけの人脈も余裕もあるわけではない。出会いは偶然の賜物。本当に彼がフリーとして生きていくには、とにかくキーパーソンを探すことに限る。どんなに恥ずかしくても、どんな手を使っても、その予算の決定者に出会うことだろう。そして彼や彼女を納得させるしか方法はない。
一般の営業では、高くても数十万程度しか決裁権がないだろう。いやもっと低いかもしれない。そんな人たちに振り回されていたら、徒労に終わるに決まっている。こんなことを書きながら、自分がそういう状況に追い込まれたら、と想像してみた。ああ、やっぱりそんなことできないな。◯◯君のように、もう立派な経営者として戦略を立てて、仕事を獲得している人を見るたびに“エライ”と尊敬してしまう。
私はもう単なる請負はやめよう、と決めてしまったのだ。売り込みをするのは、あくまでも自分が発信する企画のためにしかありえない行為になっている。お仕事をいただくことで奔走することはやめてしまったのだ。
今日、かつて勤めていた会社の営業報告が届いた。それには、景気の低迷とITについての世間の理解のなさが売上げ減の原因だと説明してあった。はたしてそうだろうか。インターネットそのものが、結果として未来を語るものではないというのが私の結論だ。ひとつのツールとして新たに浮上しただけに過ぎず、根本的なものは何一つ変わっていなかった。だから理解がないのではなく、理解させるだけの魅力を示せなかっただけのことだ。しかもコンテンツの本質は何も変わっていない。それはクリエイティブ力だ。
つまり脚本家、撮影監督をめざす友人などのように、それを生み出し続ける人たちこそ、その未来を語ることができるわけで、1,2年で生み出されるような即席コンテンツではないはずだ。だから私も早く、彼のような存在となっていきたい。お金もいい。しかし自分の生み出したコンテンツが世に出ることを願い、日々、こうして書き続ける自分を大切にしたい。決して安っぽく売り込みなんかするものか、という姿勢で踏ん張っていく、そんな自分を選んだということだ。
*****
請負なんてしない。
その気持ちは今でも変わっていないが
組織の中で物事を進めるには
組織のなかの仕事を
請け負わなければならない。
組織人である以上
自分に関係のない仕事に
手を出さないというのは
あり得ない行為である。
苦手だから。
やったことがないから。
だからやらなくてはいけないし
誰かがやらなければ
大きな目標は一歩も進まない。
お金を貰ったやるのか?
役職が付いたらやるのか?
何をモチベーションにしてやるのかといえば
それは信頼しかないだろう。
信じてくれる誰かのために
やるしかないだろう。
自分勝手だったジブンが言うのもなんだが
組織の中にいることで培われた能力の
ひとつなのかも知れない。
それを
ツナグシゴト
と人は言うようです(ジブン調べ)。
#あの頃のジブン |31
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