歴史快道を自転車で往く#10
東海道
10)宮宿〜鳴海宿〜池鯉鮒(知立)宿篇
いよいよ東海道を走っていくにあたって、しっかりと腹ごしらえをしてからことに臨まなければ、と思い、金山駅にある韓美膳 μPLAT金山店に立ち寄って、牛カルビセットをいただきました。いや〜マシッソヨ!
お腹も満たされたので、ゆっくりと走り出し、分岐点になる追分まで戻って来ました。ここからは国道1号線に沿って東海道を南東に向かって進んでいきます。メイン通りから一本中に入ったところの道は、心なしか、しなるように曲がっていて、旧道の感じを残しています。
少し進むと<都々逸発祥之地>なる石碑を見つけました。
江戸時代 の1800年(寛政12年)ごろ、“鶏飯屋”で働く女性が大変な美声で『神戸節』『潮来節』などを歌い、終わりに「どどいつどいどい」などという囃子を入れて歌われ、名古屋全域に広まったらしい。(出典:アソビューより)
それにしても、都々逸が名古屋発信だったとは驚きです。
そういえば、私の地元にも裁断橋なるものがあった記憶があり、調べてみると、宮宿にあるのが本家本元のようでした。
小田原征伐で亡くなった堀尾金助の菩提を弔うべく、その母親が33回忌に息子を最後に見送った橋の架け替えを行ないその供養としたとのこと。(ウィキペディアより)
大口町にある裁断橋は、戦後に堀尾氏の居城があった場所に復元されたものらしい。
東海道を進んでいくと、何故か鎌倉街道など、違う名称の道と交差していることが多い。これは多分、鎌倉時代に整備された街道が以前からあって、そこと交差したり、重複したりして東海道が整備されたからではないかと思われます。
気が付いたら笠寺観音に到着。名称は駅名にもなっているので馴染み深いが、初めてそのお姿を拝見することとなりました。春先のお祭りの準備なのか、境内は装飾されて、人が参詣する列を整理するコーンが並べられていました。
毎月「6」のつく「祈願日」(6、16、26日)には、祈祷が行われ、境内で青空市『六の市』が開かれるらしいので、その日だったのかも知れません。
ところで、中山道の旅でも言いましたが、この歴史的な旧道は、何故か鉄道沿線、しかも東海道の名古屋近郊は名古屋鉄道の路線に沿うように走っているような気がしました。
地図を見てみると、確かに名古屋鉄道の豊橋まで続く名古屋本線が東海道に並走するように敷かれています。多分、国鉄はできるだけ早く作り、短時間で行けるようショートカットするために、新しい土地を切り拓いて作られ、それを補うように、旧道に沿って私鉄が作られたのではないかと思いました。
貝塚の案内板がありましたが、昔はこの近くまで海が迫っていたため、ここで暮らしていた人たちは、魚や貝などを食べて生活していたのは想像できますね。
ようやく鳴海町に到着しました。鳴海町という名称の由来は、「なるい海」ということで、名古屋弁では緩やかな様子を“なるい”と表現することから、穏やかな海辺だったのではないかと想像されます。近くには鳴海城跡や根古屋城跡、古くからのお寺が点在していました。
近くの商店街になっている道を進むと、旧にクランクのような曲がり角が。やっぱり、街道筋なんだなあ、と思わずしたり顔で微笑んでしまいました。
次回はお馴染みの「有松」と「桶狭間」です。
お楽しみに。
--- 次回、有松宿へ-----
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