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人生の区切りを迎えて#16 この歳になっても他人事の死
■大事な人という存在が亡くなる意味
一昨日、中山美穂さんが亡くなった。
54歳。まさに、人生これから、ということが当てはまる年齢で、彼女のような、光り輝く自分の人生を他人のために捧げてくれた人に、これからようやく、自分のための人生が始まろうとしていただろうに。
こういう死に直面するたびに、多くの人から「若すぎる」という言葉が先に出てくることがある。では、人はいつになったら死んでもいいのかと考える。いくつであっても“死”というものを納得できる年齢というのはないのに、なぜ「若い」とか「早すぎる」という言葉が出てくるのだろう。
若者が亡くなったらダメで
年寄りが亡くなるのは大往生?
そろそろ自分の死期を意識して、「このくらいで亡くなってもいいよね」と、自分で決めておきたいと思うようになった。
何故かといえば、終わりなき人生はむしろ残酷だから。ゴールのないマラソンがいいですか?終わりなき仕事に希望はありますか?そう、終わりがあるから前を向いて進むことができる。ただ、その最期を他人に決められるのが嫌だから、自分で決めたいと思った次第だ。
■自分の命の最期は自分で決める
前回、「平衡力」という話をしたが、人生を生きていくには、真っ直ぐな道ばかりではなく、振れ幅があって、行きつ戻りつを繰り返すし、その振れ幅も一定ではないので、できれば、自分にとって一番いい時期に死を迎えたい。
それはとでも贅沢で、生まれたことも偶然であり、ここまで生きられたのも奇跡であるなら、死もまた自分でコントロールできるはずもないと思うのが普通だ。
でも、それをなんとかコントロールできないか考えてみている。わがままのように聞こえるかもしれないが、では、長生きをしたいというのと、どちらがわがまま度合いが高いのだろうか。そう、比較の問題ではない。ただ、天からやってくる死期を待つだけの人生は御免だと思っているのだ。
そこで考えたのが、自分が経験してきたバイオリズムから予測する方法だ。これまでに起きた出来事から、人生の振れ幅とその期間、度合いなど、さまざまな数値や頻度、期間、年数をもとに割り出してみた。いわゆる人生グラフみたいなものだ。
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その結果、余程のアクシデントがなければ、私は85歳まで生きる、すなわちその辺りで亡くなるという予測に至った。
■これから先は自己チューに生きていきたい
では、その最期までどうやって生きるか。
最優先に決めたことがある。それは、どれだけ自己チューで生きられるか、ということ。人生の後半戦を迎えて、どうしてわざわざ他人から嫌われるような目標を設定したかだが、これにはちゃんと理由がある。
私たちは生まれてこの方、社会的な役割を担ってきた。
まずは両親の子どもとして、◯◯家の子ども、長男として、◯◯幼稚園、小学校、中学校、高校、大学に所属する園児・学生として、◯◯会社の社員として、◯◯の夫として、◯◯ちゃんのお父さんとして…とにかく、どこの誰でもないという自分になったことがないのだ。その属性というのを取り去ろうとするならば、どうしても自己チューにしかなり用がない。
他人から求められる人物像を演じることで社会的な評価は受けるが、自分自身が本当にそうなりたかったのかと言えば、やむを得ないものもあるが、そうではなかった、むしろ演じたくなかったことの方が多かった、というのが本音だ。
中山美穂さんも6年前ぐらいの生前のインタビューで、「自分らしく生きたい」と答えていた。周囲から見れば、どれだけ自分らしく生きたか、と言われたとしても、自分の中で納得していなかったと感じてしまった。
彼女は最期に自己チューになれたのだろうか。
———編集後記———
今朝のNHKの番組で、「老い」について特集し
40代後半の女優さんたちが自分の経験を話していた。
彼女たちは
時代を華々しく彩り
多くの人たちを歌や演技で魅了してきた。
その彼女たちが「老い」を語るのである。
同世代の私としては複雑な気持ちだったが
彼女たちの言葉に共通するものがあった。
それは「あきらめ」だ。
上手くできなくても
そんなものだと割り切ればいい。
かくいう私はそうはいかない。
最期に向かって
元気で美しく健康でなければならない。
ならないではない。
そうありたいのだ。
あきらめるのは
自分の人生を他人に預けることであり
自分の生をまっとうするために
最後まであきらめない自分になろうと思う。