050合ってる?合ってない?どっちでもいい
とある人の記事で、神社での礼拝の仕方について「これが正式」というものに、かつてはそんなことなくもっとシンプルだったと言っていた。うんうん、そんな気がする。
特にその件に関してどうという気持ちもないのだが、思うに我が物顔で「(正式は)そうじゃない!!」と言い出す人がいそうでちょっと不安になる。
よく言われてるけど、ものごとであいまいな部分もあるのについ正解を求めすぎちゃうんじゃないかな?
上記の礼拝のことだってどっちでもいい気がする。その正式(?)なものだっていつ、誰が定めたものなんだろう?と疑問に思う。そもそも初詣だって明治の頃かららしいし。何かにつけて調べがきく分、先に結論が出ちゃうので「こういう方法」のみ先行して、いつしかそれが主流じみたことになっちゃうのかな?方法よりもそれにどんな意味があるのか、その背景などまつわることは置いて行かれる。
以前のマスクケイサツやジシュクケイサツだって「そうする」ことだけに主眼がおかれ、本来の意味から外れちゃって、我が物顔の正義(論)を振りかざすことも根っこは同じような気がする。
本来、その人のとらえ方が優先されるべきだと思う。年代も地域も考え方だってちがうはずだ。例えば「平服でおいでください」など平服も人それぞれ。その人の勝手な服で構わないと思うが、一部で平服の正解を求めたがる人が現れる。
ぼくは文字のデザインを教えているが、他のデザインジャンルに比べてその文字が「合っているか?」に引っかかる人が必ず現れる。例えば大文字/小文字、線が出っぱるとかでないとか…そんなのど〜だっていい。文字がからむことによって見せることをわすれて、読ませることに固執してしまう。要はイメージを伝えることが優先されるべきで、阻害されなければどんなカタチはどうだっていい。
そもそも発想って自由であるべきで、合否にとらわれてアイデアが発展しないケースはもどかしい。
世の中に出回ってる、あれはやるなこれをやれ、といった合否を決めようとする。
なので、できるだけどっちでもいいよ、という声がけがいいんじゃないかと思ってる。
生成AIなんてものが今後世の中をどう動かして行くのかわからないが、奴らもあんまり合否については言及して欲しくないな。グレーでテキトーな答えを出しといてもらえればいいよ。あとはこっちで判断しますって!