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企画展感想①:土門拳記念館:2つのまなざし 江成常夫と土門拳ーヒロシマ・ナガサキー

これから自分が行った企画展の感想をNoteに残していこうと思います。
あくまでも行った記念やその時に考えた記憶を残す用のメモとして書いていければと思います。

そもそも土門拳とは?

以下パンフレットより引用
『土門拳(1909~1990年)は戦後日本を代表する写真家の一人である。リアリズムに立脚する報道写真、日本の著名人や庶民などのポートレートやスナップ写真、寺院、仏像などの伝統文化財を撮影。激動の昭和にあって、そのレンズは真実の底まで暴くように、時代の瞬間を切り取ってきた。』

正直初めて聞いた写真家であったが、館内の説明資料から
何かその時代に対して怒りを持っており、その怒りを表すために
写真という写実的なものを使用した写真家だという印象を受けた。
土門は「カメラは道具にすぎず、写真を撮るのは人間であり、思想である」と捉えていた、とのこと。

土門拳記念館について

以下パンフレットより引用
『土門拳記念館は一人の作家をテーマにした世界でも珍しい写真専門の美術館として1983年10月、土門の郷里である山形県酒田市に開館した。土門拳の全作品約7万点を収蔵。土門のライフワークであった「古寺巡礼」をはじめ、「室生寺」「ヒロシマ」「筑豊のこどもたち」「文楽」「風貌」などの作品を、その保存をはかりながら順次公開している。』

まずこの土門拳記念館の建築物についての感想だが、本当に素晴らしい。
灰色のコンクリート打ちっぱなしを基調とし、角が強調された造りは厳かで、静かな雰囲気を醸し出している。
また、山形駅から車で2時間弱かかる酒田に位置するおかげで、嬉々とした山々に囲まれており、静かで作品に集中できる場所である。
壁一面の窓が大きいため、自然光が柔らかく差し込み、記念館内を見て回るだけでも楽しい。個人的に今年行った美術館の中ではダントツ好き。
設計は谷口吉生氏で、1983年に開館したとは思えない斬新な建物である。

生憎の曇り空ですが、空と建物のグレーの対比が気に入っています

企画展「2つのまなざし 江成常夫と土門拳ーヒロシマ・ナガサキー」について

以下HPより引用
『1957年、原爆の惨禍を撮影するために⼟⾨拳が広島を訪れました。戦後12年を経てもなお⽣々しい傷を抱える被爆者の姿や、過酷な⼿術の現場などを⽬の当たりにした⼟⾨は、翌年に写真集『ヒロシマ』を発表。国内外に⼤きな反響を呼びます。同作に⼤きな影響を受けた写真家の1⼈が、当時20代前半だった江成常夫です。江成はその後⾃⾝の仕事の⽂脈を“戦争の昭和”に定め、様々な被写体と向き合っていきます。その間、彼の中には常に被爆地への思いがありました。そして終戦から40年後の1985年、初めて広島に踏み⼊り、今⽇に⾄るまで綿密な取材や撮影を継続。どのように“被爆”を写真化するか問い続けた末、2019年の写真集『被爆ヒロシマ・ナガサキいのちの証』では、被爆地の遺品や遺構などの「モノ」のみを徹底的かつ克明に写し出しました。⼟⾨と江成が異なる時代に/ 異なる⼿法で表現してきた被爆の様相は、それぞれの視座から原爆の恐ろしさや平和への希求を重く深く訴えかけてきます。原爆投下から77年を経た現在も、世界では戦⽕が絶えません。本展における2⼈の写真家のまなざしが、戦争や平和を改めて考えていくきっかけになれば幸いです。』

まずは江成常夫の作品について、物にこべりついた歴史を写真で表す手法というのはとても斬新に感じた。
ただキャプチャがないとその写真から感じることができるものが減ってしまう感覚なので、写真と文字の関連性で捉えてみると面白いのかもしれない。写真を見る→題名を考える→本当の題名を見るという流れでより想像できるものが増える感覚がある。
とにかく原爆が与える影響のまがまがしさは写真から感じ取ることができたように思う。

被曝した方の腕時計

次に土門拳の作品であるが、最初の印象としてはその禍々しさに面食らった。
最初、被曝による皮膚移植の手術光景が生々しく捉えられた写真は、原爆の影響、その悲惨さを痛感させる最も有効なツールのように感じることができた。
途中で目を逸らしたくなる写真もあったが、ここで目を逸らしてしまうと何かいけないような気がして、頑張って苦しみながら鑑賞を続けた。
ここまで観る人に負担を強いる写真も少ないのではないか、とさえ思う。写真家としての覚悟とスタンスをまざまざと見せつけられたように感じる。
また、中には被爆者の方がそれでも笑顔で楽しそうに生きる写真もあり、五体満足で生きる我々の生き方を見直す機会となった。
なぜ私たちは不満がないこの世界に満足できないのか、不満にフォーカスをせず、この人たちの分ももっと笑って生きようと思う
ことができた。

被爆者同士の交流、笑顔がかけがえない


日常を捉える写真が好きな私にとって、土門拳の写真はあまりにも非日常であり、原爆と戦争の恐ろしさをまざまざと見せつけられ、トラウマになりかけた。
一方でこのような写真のあり方もあるなと納得させられる部分もあった。
自分も日常の写真を撮る中で何を伝えたいのか?はもっと意識的にならないとと改めて痛感した。

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