あれから10年、そしてこれから
子供の頃の10年の長さと、大人になってからの10年の長さって、なんでこうも違うものに感じるんだろう。
小学校の頃は、一か月間の夏休みですら凄く長かった。長かったけど暇という記憶はない。
カブト虫を探して、虫取り網を持ち雑木林をどこまでも歩いた事とか、うどん粉をこねた餌で魚釣りをして釣れなかった事とか、ただひたすら星空を眺めていた事とか、そんなありふれた日常も、鮮やかな思い出になって残っていたりする。
それから。
夏休みは一日中プールで泳ぎまくってその締めに、銭湯上がりのおじさんみたいに腰に手を当て、給食室で瓶牛乳を一気飲みしたり、家出した友達を探しに、夜、学校まで夢中で走ったり(自分の部屋の押し入れに潜んでいたのをその後発見)、図書室のベランダでの告白を友達に見られ冷やかされ、恥ずかしくてベランダを猛ダッシュで逃げたりとか、卒業間際に友達と先生と保健室で女子会して、先生から「これからの世界はすごく広いから楽しんでおいで」とお母さんみたいに温かく諭されたりとか‥。
ザ・アオハルの年頃は、一年が、一日が、物凄い濃度で。でも、悲しみも楽しみも、全てがゆっくりと過ぎていった気がする。
20代
30代
年齢を重ねるにつれ、次第に時間は早回しになり、現在地の40代。一年は瞬きしてる間にささっと過ぎてしまうような、そんなスピード感だ。
この感覚って何なんだろうと調べてみれば、『ジャネーの法則』とか、『「時間評価」の問題』などと言われているもの、らしい。
経験値が増えた結果、感性が鈍くなったり、同じ時間の中でのタスクが年々増えて、それをこなすことに懸命になるため、などなど、あれこれと複合的な理由がからみあっての感覚、なんだとか。
だからか、大人になってからの事で覚えているのは、それまでに経験したことのない出来事だったり、想像を遥かに超えるようなインパクトの大きな物事が多い。
2011年3月のあの日の事もその一つだ。
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あの日、職場で震災にあった。震度6強。
揺れと同時に停電。毎年の避難訓練では館内放送で避難指示を出すのだが、停電で放送は使えない。そもそも、停電になる事を想定して訓練はしていない。そして、訓練はいつも火災を想定している。地震のみの想定はない。
揺れが収まりフロアをさっと見渡す限り、周辺に目に見えた被害はない。幸い、火災も起きていないようだ。
上司に避難指示を出すか確認しているうち、工場棟のスタッフが一人「避難しろ!」と叫びながら走って出てきた。その声で皆、建屋外への避難を始めた。後から聞くと、工場内は揺れにより設備があちらこちらへと動き、一部は横転し、作業者が数名パニックを起こしていた。
全従業員の避難を確認。パニックでの過呼吸はいるが、怪我人はいない。
震源や被害状況を調べようとするが、何が起きたのかの全容が分からない。電気も戻らない。また揺れる。寒い。
そのうち、誰かの携帯に映し出された津波と火災の映像ー
避難から一時間程後。安全を確保しながら順番に建屋に入り、最低限の私物のみ持ち出し、そのまま帰宅の指示が出た。
念の為と途中のコンビニに立ち寄るも、既に人で溢れ、飲食物は底を尽きていた。薄暗い店内で、店員は必死に手計算で対応している。
車で一時間の帰宅路にある街は全て停電し、あちらこちらの家の塀が崩れていた。
自宅は幸い大きな被害はなかったが、会社はその後1週間、自宅待機の指示となった。
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自分の被災はごく僅か。家族も友人も無事。
数日経つとメディアでは、各地でボランティアが動き出したと報じ始める。ならば、と思うも、ここ地方都市での全移動全生活の術となる車のガソリンの入手がままならなくなった。
無力さだけが積みあがる。
やがて、ゴールデンウィークの頃。
ガソリンの供給が少し落ち着き始めたのを見計らい、ボランティアを募る団体を探し、ボランティアバスで福島県いわき市に二度伺った。
一度目は、津波により町中の用水路に溜まったままの海の砂の除去作業。
二度目は、津波により運動公園内に運ばれ残ったままになっているゴミの除去作業。
多数の団体と合同での作業だったこともあり、その日の目的はある程度果たせた。でも、途中の道すがら目にした街の現状は、メディアで見ていたそれのままだった。大きく隆起し、地割れし、寸断された道。落ちたままの橋。崩れた家。瓦礫の山‥
また元に戻るには、その地に住む人々が普通に生活出来る様になるには、まだまだ時間も労力も、ありとあらゆるものが膨大に必要なのだと。そして、ここと同じような地は、更に深くて大きな傷を負った地は、他にも無数にあるのだと、車窓から目に映るその街が語っていた。
積みあがった無力感はボランティアをする事で少しは消えるかも、なんてことをさも簡単に思っていたが、現実はその真逆。一つのリアルを目の前に、自分の小ささと無力さは、更に背中にずしりと重くのしかかった。
自分にできる事。
被災地が、被災した人々が必要としている事。
情報を探し、あれこれ考えても、すっきりする答えは見つからない。
これからはとにかく、細くても長く続けたい。
そんな思いで始めた事の一つが今年で10年目となり、節目を迎えたと先日知らせが届いた。
あれから10年。
途中で私は親になり、日々は更に速度を増して過ぎたように感じる。
でも、大きな傷を負ったのち、再び立ち上がる入り口にいる一つの街を見たあの日からの10年は、まだ10年なのか、とも率直に感じる。
私の中で、半径数メートルの時間軸とは違う軸で過ぎてきたもう一つの10年がある。
震災から7年後。あの時ボランティアで訪れた街を子供と一緒に訪れた。
瓦礫の山となり、車が走れば真っ白に砂埃が舞っていた湾岸は、綺麗な遊歩道や大きなショッピングモール、物産センターが再整備され、活気が戻る街になっていた。
しかし、地元の海での全面的な漁猟開始は、10年経ったこれからなのだという。
そして。震災から4年後、岩手の久慈から湾岸線を南下する旅をした時に見た、真っさらに整地され、なおも整地途中だったあの海沿いの大きな大きな街− あの日、寒空の下で誰かの携帯に映し出されたあの街は、6年経った今でもまだ訪ねることが出来ていない。
まだまだ、小さくとも細くとも、長く出来ることが私にも沢山あると思う。
背中に張り付いた無力感は今でも消えないけれど、思いを持ち続け、自分に出来る形で寄り添い続けること。
これからの10年も、もっと先も、その時々で支援出来る事を出来る形で続けていくこと。
10年は一つの節目であっても、間違いなく、通過点でしかないのだ。
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余談だが、震災後に社内でBCPの再検討があった際、合わせて停電時の社内対策を挙げた。
それまで、キャビネットの中に収めてあった拡声器は、誰もが直ぐ手に取れる一等地に定位置化し、電池式LEDライト数本もその側におくようになった。昼間でも、大きな社内は電気がなければ薄暗い場所も多く、避難時に混乱する者もいて、危険を伴う場合もあると、あの時の経験で分かったからだ。
万が一の時は、真っ先に拡声器を手に取る心の備えはいつもしている。拡声器がなくても落ち着いて大声を上げる準備も。そして自宅の防災リュックのアップデートも。
身近な防災こそ、経験を活かし、続けていかなければいけない。