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「天使の跳躍」の読書感想文

注:ものすごくネタバレします。七月隆文著「天使の跳躍」(文藝春秋)をこれから読む方は、ネタバレなしの方が絶対楽しめるので、先に本を読むことを強くお勧めします。いいか絶対にだぞ!



まさかこんな本が読めるとは思いませんでした。本当に発売日当日、あのツイートを目にするまで思いもよりませんでした。

将棋史に残る名著「師弟」の作者、カメラマンの野澤亘伸さんがポンと呟かれたのです。
「将棋ファンなら、主人公の姿がある棋士と重なるはず。ああ、言っちゃえ! 木村一基九段ファン必読!」

なんですと!

折しもその日はB級2組の順位戦で、私の推し、木村一基九段が戦っている真っ最中でした。応援が忙しかったのでその日は本屋に行かず、次の日に買ってきました。

美しい表紙。カバーを外した装丁もすごく素敵。

ちなみにその順位戦は負けました。これで開幕3連敗です。2019年に46歳で初タイトルの王位を取り、2020年にも王座戦挑戦を果たすなど、そのボヤキとは裏腹に尋常でない実績を残し続けてきた木村先生も、2024年はなかなか苦しい星が並んでいます。

かつては木村先生が負けると、大仰に嘆き悲しむのが私の常でした。おふとんに潜り込んで一切合切を放棄するような嘆きぶりでした。ですが最近になってふと考えたのです。これは一体何についての悲しみなのだろうかと。
よくよく掘り下げてみると私は、木村先生が失うであろうもののことを想像して、その悲しみを先受けして悲しんでいるのです。木村先生が実際どう考えているかはお構いなしで、勝手に脳内に作り上げた喪失を眺めて悲嘆に暮れているのです。何というか、迷惑な話だなあと思いました。

その時から、木村先生が負けても悲しまないようになりました。結果が勝ちか負けかに関わらず、私が確実に必ずもらうものがあります。木村先生が一生懸命準備して、全部ぶっ込んで対局に臨み、もがいてもがいてがんばる姿です。その姿から自分がどれだけ力をもらっているか、それがどんなにありがたいことか、そこを見ようと思いました。勝手に何かを失った気になって悲しむより、間違いなく受け取っている幸せを見ようと決めたのです。

この本の主人公のモデルである木村一基九段が、どんな風に人を惹きつける棋士なのかが分かるといいなあと思って、ちょっと脱線しました。

本書を購入する前にAmazonの試し読みでさわりの部分を読むことができ、その時点でものすごくたくさんのことが分かりました。何より驚いたのは、登場人物が実在の棋士そのままであったことです。モデルとして参考にしたどころではない、木村先生はまんま木村先生だし、とよぴーはまんまとよぴーです。「この話はフィクションです。実在の団体・人物・事件とは関係がありません」と言えないレベルです。えっこれやっていいの!?と狼狽えてしまいました。あまたある将棋作品において、実在の棋士をモデルにするのはよくあることですが、こんなにそのまま本人を持ってくるのは同人誌以外で見たことがありません。

それでいて、ストーリーはもちろん虚構なわけです。主人公が妻と会話を交わすシーンを読みながら、私はほとんど混乱していました。「きゃー!木村先生、奥さんとこんな会話されてたのー?」と色めき立ち、次の瞬間には「バカもんこれはフィクションやろがい!」と思い直すことを繰り返しました。しかしフィクションと割り切るには、主人公があまりにも木村先生なのです。例えば、記録係から「これより一分将棋です」と告げられた時、どんなに切羽詰まった局面でも「はい」と返事を返す、これはもう木村先生本人です。作者は木村先生をかなり観ているなと感嘆する一方で、この話はどこからが嘘なのか、読み手としての尻の落ち着け方が分からず、困ったなあと思いました。まあこんな困り方をするのは、ファンの中でもいちいちきゃーきゃー反応する、アホの末席あたりに座った私くらいのもんかな、とも思いました。

週末になって、いよいよ購入した本を開く時間を迎えました。試し読みの続きを読み進めると、今度はてんてーが出て来ました。短い描写でてんてーのかっこよさとかわいさが実によく表されています。作者はてんてーファンだな、と思いました。研究仲間の女流ちゃんとお弟子くんも出てきました。女流ちゃんはなんとなく上田初美さんを思わせましたが、木村先生やてんてーほどまんまではなく、かなりオリジナルの要素がありそうです。お弟子くんの方はと言えばもう完全なオリキャラで、明らかに虚構側の人間でした。
この女流ちゃんとお弟子くんというオリキャラが動き始めたおかげで、「ああこれはフィクションだ」と安心して、腰を落ち着けて読み始めることができました。どちらも生き生きと動いてたくさんの思いを抱えた、とってもいいキャラでした。

試し読みをして実在の棋士がまんま登場すると知ったとき、危惧したことが三つありました。一つは、先に述べた「どこからが嘘か?」ということ。もう一つは「小説として楽をし過ぎではないか?」という疑問でした。私のだんなも脚本書きで、登場人物を一から作る苦労を私も多少は見ています。「天使の跳躍」はその工程をすっ飛ばしているわけで、もしこれがすごく面白い物語になったとしても、作者の力量として評価されるのかしらと、余計な心配をしました。
三つめの懸念は、「将棋を知らない人に伝わるのか?」ということです。我々将棋ファンは、これはてんてーですとラベルが貼られた時点で自分の知るてんてー情報を自動的に上乗せしながら読むことになります。またこの作品はそれを許している、あるいは歓迎していると思われます。この上乗せがまったく起こらないであろう一般の読者はどの程度実在キャラへの愛着が湧くのか、これまた余計な心配をしました。

三つめの懸念点については最後まで私には分かりません。しかし一つめと二つめの心配は、女流ちゃんとお弟子くんのおかげで早期に払拭されました。これはフィクションとして読むものだと確信できたし、キャラ造形の力量も充分に示された。なんなら創作キャラを実在の人物と違和感なく絡ませるという、もっと難しいことをやっているような気さえしました。そもそも作者の力量だのその評価だの、いらん心配をしながら読むなという話ですが、「これはズルではないか」と引っ掛かりながら読み続けるのは辛いものです。早々にその心配を解消してくれたこの作品の組み立ても、作者の入念な計算のうちだったと思います。

そこからはグイグイと物語に引き込まれました。地球代表の名前が「地守」になっているところは大爆笑しましたが、そういう楽屋ネタではなくストーリーそのものにしっかり掴まれて読んでいきました。これはすごいことです。なぜなら私はこの時点でストーリーとその結末を知っていたからです。木村先生が初タイトルを獲った2019年の第60期王位戦を七番勝負から五番勝負へ、対局相手をとよぴーから藤井くんへ、そこだけすげ替えたお話であることは将棋ファンならもう全員見当がついたと思います。だからおそらくフルセットで戦って主人公がタイトルを獲って終わるんだろうなと思いました。そこまで分かっていてもなおストーリーを面白く読めたのは私が木村ファンだからではなく、お話の力によるものでした。端的に言うと少年マンガ系の面白さです。一戦一戦重ねるごとに初恋の相手やかつての戦友や羽生さんなど主人公を取り囲むいろんな繋がりが現れて、その関わりからヒントや武器を得て顔を上げ立ち向かい、周りも変えていく、王道のスポーツ成長ものの力強い面白さがありました。

一番腹を抱えて笑ったのは、羽生さんがラーメン三銃士よろしく連れてきた棋士軍団のトリとして、なべが出てきたときです。やっぱり楽屋ネタじゃねーかと言われそうですが、こんなん笑うやろっちゅー話です。そもそも同業の棋士がタイトル戦の応援はおろか、わらわら出てきて研究を授けるなんて現実ではあり得ないことで、このあたりは完全な将棋ファンタジーとしてキャッキャッと楽しむことができました。山ちゃんが羽生さんに怒られたエピソードが出てきたときも笑いました。軍曹が出てきたときが一番心配になりました。人間であることをやめるという実話がはっきりと気色の悪さに転換されていて、そこはもちろんフィクションなのだけどそれ以外の部分は言い訳のしようもなくこれは軍曹です。結果としてすごくいいキャラだったのだけど、私だったらこれを事前に本人へ通さず刊行する勇気はないし、事前に「これOKですか」と確認する勇気はもっとありません。いずれにしろ、これを承諾したのだとしたら軍曹はたいした男だと思いました。

ファンタジーではなく現実として身につまされる秀逸な描写もたくさんありました。ビールとの戦いが素晴らしかった。私は飲みませんが、隣でだんなさんが毎日この戦いをやっています。脚本を書くとか動画を作るとか、やるべき創作活動に充てる時間が、この1本を飲むと今日はもう溶けてなくなる、飲むべきかやめるべきか、よしオールフリーにしようだのコーラを飲もうだの、毎日毎日やっています。その葛藤と苦しみがまざまざと描き出されていて、よく分かってらっしゃるなあと思いました。

一から考え出すことのめんどくささが詳細に表現されていたのも素晴らしかった。AIに頼らず手を読むことの難しさを多くの棋士が口にしますが、なかなか具体的には想像しづらいところです。それを、ややもするとスマホいじりやビールに逃げたくなるという、共感しやすい卑近なレベルにまで掘り下げてつぶさに描写したところがとてもいいと思いました。私もいまこの読書感想文を書くのがおっくうでおっくうで、Youtubeやスマホゲーに逃げては戻るということを繰り返しながら書いています。棋士や作家の、ないところから何かを積み上げる作業の苦しみを、ほんのちょっぴりですが私も味わえているということなのでしょう。

物語は収束し、第60期王位戦の第7局の棋譜がそのまま再現されました。これも「天使の跳躍」というタイトルから、木村ファンとしては半ば予想していたことでした。一人の作家をしてこんな大変な作品を書こうと思わしめた一局だったのだなあと、「木村一基実戦集」を引っ張り出し新たな感慨を持って、その棋譜を眺めました。

告白すると、試し読みをしたときに浮かんだ懸念点がもう一つありました。
「木村先生は、タイトル戦で藤井くんに勝っていない」ということです。
現実においては、七度目の挑戦でようやくタイトルを獲得した木村先生の初の防衛戦に、よりにもよって現れたのが藤井くんでした。七番勝負で四連敗し、苦労して苦労して獲ったタイトルを木村先生はサッと奪われました。ファンにとってはいまだ喉元にとどまり続ける煮え湯であり、木村先生と一緒に背負って歩く十字架のような事実です。蛇足ながら申し添えると藤井くん個人に対する恨みはありません。あそこに天才を連れてきて座らせた神様に対して恨み言を言いたい気持ちはあります。

なので、どうもこれは木村先生が勝つストーリーらしいぞと気づいた時から、その瞬間を迎える自分はどんな気持ちになるのだろうと思っていました。やったー藤井くんに勝ったぞーと喜ぶことだけはあり得ない。むしろ虚しさが広がるのではないかと想像しながら読み進んでいました。
結論を言うと、そのどちらでもありませんでした。これも作者のうまさなのでしょう、最終局では勝敗を超えた何か清冽な雰囲気が漂うなか決着がついて、読後に残ったのは圧倒的な清々しさだけでした。「負けた負けたあ!」というときの清々しさが一番近い気がするので不思議なものです。この清々しさが薄れた頃、再び私はよっこいしょと十字架をかつぎ上げるのでしょう。

読み終わってすぐだんなさんに、あなたもこれ読んでとお願いしました。将棋界を知る人と、一刻も早くこの本の感想を語り合いたかったからです。うええと言いながらもだんなさんは読んでくれました。読み始めると私と同じく一日で読み終えました。面白かったようです。よかった。そして開口一番「木村さんはモテすぎではないか」と言いました。実際のところあのくらいモテていると思うから私には違和感がなかった、と返すと爆笑されました。その後は紛糾することなく、楽しく感想を語り合いました。

作者の七月先生に御礼を言いたくて、この感想文を書きました。あれから五年が経とうとしている今になって、こんな喜びを享受できるとは思いませんでした。おかげであらためて木村先生が好きになったし、他のどの棋士のファンも味わえない、特別な体験をさせていただきました。七月先生のおかげです。心から御礼を申しあげます。


おわり


■将棋界を知らない方のための、棋士あだな注釈
 とよぴー:豊島将之九段(作中では速水九段)
 てんてー:藤井猛九段(作中では小湊九段)
 地球代表:深浦康市九段(作中では地守九段)
 藤井くん:藤井聡太七冠(作中では源八冠)
 羽生さん:羽生善治九段(作中では上州九段)
 なべ:渡辺明九段(作中では竜堂九段)
 山ちゃん:山崎隆之八段(作中には出てこない)
 軍曹:永瀬拓矢九段(作中では加賀五段)

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