32分間の主人公達


私の会社には半休制度がある。
有給は消化しないが、年に何回かの半休をとる事が許されている。
私はそれがとても好きだ。
午前中である程度の仕事を片付けて、13時半には会社を出る。


私は普段、通勤に電車を使う。
行きは上り、帰りは下りなので、普段はそれなりに混み合った電車に乗る事になる。

しかし昼時過ぎに乗る下り電車はかなり空いている。
ガラガラといってもいいかもしれない。
大体1車両に10人程度が乗っていて、其々お互いに干渉しない程度の距離を保ち、点々と座っている。


その日はよく晴れていた。
まだ3月前半だというのに、テレビの天気予報では4月上旬の温かさだと言っていた。
まばらに座る人達に、電車の大きな窓からオレンジ色の陽が差していた。

そこで私はある事に気付く。
斜め前にある優先席に座る老人だ。

その老人は靴を脱ぎ、両足を座席の上に乗せて斜め座りをしている。(私が小学生の時は「女座り」と言われていた)
荷物を自分の隣の席にどっかりと置き、分厚い本を読んでいる。

なんて自由なんだ。
満員電車なら到底許されない行為だ。
私はいくら電車が空いていようと、自分の荷物は膝の上で抱え、必要以上に足を開いたりもしていないのに。


しかし、温かい日の光に頬を照らされたその老人はとても美しく見えた。
まるでフランスの田舎町にある一軒家の、小さな庭先で読書を楽しんでいるような、優雅なひと時に見えた。
分厚い本をパラパラとめくり、前のページを見返す老人。
何を確認したんだろうか、少し笑ったように目を細めた。




急にふわりとコーヒーの香りがした。
私は匂いの先を見る。
2つ先の席に座っているサラリーマンだ。
ビジネスバッグからボトルのコーヒーを出して豪快に飲んでいる。

はあ、と溜息が聞こえた。
サラリーマンは座席に浅く腰掛け、足をまっすぐ前に突き出し、頭を窓にもたげた。
横から見るとほぼ傾斜だ。


その時、「急停車します」とアナウンスが流れ電車が大きく揺れた。
ちょうど今電車が走っている場所は、踏切の直前横断が理由でよく急停車するので皆さほど驚きもしない。

「あっ」
そこそこ大きい声が聞こえたと思ったら、先程のサラリーマンだ。
彼の足元にはコーヒーが零れていた。
彼はなんとも言えない顔で2秒程茶色い水溜りを見つめてから、窓の外に視線を移し、それから目を瞑った。

「急停車大変失礼いたしました。 踏切の直前横断により......」 お決まりのアナウンスが流れる。


なんだろう。
この胸騒ぎは。





突然だがあなたは映画「幸せのちから」を観た事があるだろうか?
「メン・イン・ブラック」等でお馴染みのウィル・スミス主演の映画だ。

主人公は災難に災難が重なり、小さな息子を連れたままホームレス状態になってしまう。
しかし頑張って頑張ってなんとか巻き返す。
そんな勇気をもらえるサクセスストーリーだ。


そうだ。おっしゃる通りだ。
正直あんまり内容を覚えていない。
でもいい映画だった事は間違いないので、未視聴の方は是非観てほしい。

その映画のワンシーンに確かこんな光景があったはずだ。
主人公が、地下鉄みたいな場所でなにもかもがうまいこと行かずに溜息をついて天を仰ぐ。
......なかったかもしれません。なんせあんまり覚えてないので。

でも視聴済の方には恐らく伝わるであろう雰囲気だと思う。
なんだか虚しくて、焦燥感というか、背徳感というか。
例のサラリーマンからそれと同じ気配を感じて、わくわくしてしまった。

同じ車両の乗客について勝手な妄想を膨らませていると、じきに自宅の最寄り駅についた。
私は心の中で彼らに別れを告げて、駅のホームに降りた。


エスカレーターに乗った私の頭の中には、アコーディオンが奏でる音楽が流れていた。
いつか観た、おそらくフランス映画の挿入歌だろう。曲名は知らない。
私は空想が得意で、たとえ退屈な日常でも楽しむ事ができる、アメリみたいな子だ。
そうだ。私も主人公だ。

会社から最寄り駅まで、各駅停車の32分。
32分間の主人公達。

オレンジ色の陽に照らされて、私の足取りも軽くなった。







いや、待てよ。

老人、荷物は抱えろよ。仮にも優先席だぞ?
電車の座席に両足を乗せるな。
今日日小学生でもやらんぞ。
空いてるからいいってもんじゃないわ。

サラリーマン、お前はとにかく零したコーヒーを拭け。
次に乗る人が困るし、普通にビビる。
茶色い水溜りなんで何が混入してるか分からないだろ。
誰が掃除すると思ってんだ。
「ふう......」じゃねえよ。
文字通り目を瞑るな。






ばか。
本当にみんなばか。

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