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「しにたい」という言葉

 しばしば裏垢で「しにたい」と呟く、友達にLINEする、ひとりごちる(誤用)。実際に死にたいわけではないのだけれど、そう呟きたい夜がある。

 「つらい」の最上級として「しにたい」という言葉を使っている。それは、「なんかめっちゃ苦しいししんどいし、私はとても疲れている!」くらいに受け取って欲しいなぁと思ったりする。繰り返し言うが本気で死にたいわけではないので。

 「大丈夫?なんか辛いことあった?話聞くで?」みたいに言われると、(あ、いや、ちゃうねん。これはそういう「しにたい」とちゃうねん)という気持ちになってしまう。

 「しにたい」という言葉と実際の”死”との間には大きな高い壁があって、その壁を越えてしまうことはよっぽどのことがない限りないのだけれど、その壁に近いところに心がある時に、「あ〜、しにた、、」と心の声が漏れ出てしまう。

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 「しにたい」って気軽に言える人が周りにいると少し楽だなと感じる。「しにたい」と呟くだけで少し心が軽くなる部分がある。「し」「に」「た」「い」の4文字はただの記号でしかなくて、その連続した記号の受け取り手は大体の場合ビクッとしてしまうのだけれど、発信者は特に優しい言葉を求めているわけではない。「そだね〜、そういう気持ちの時ってあるよね〜」くらいに適当に流してもらうのが正直一番助かる。

 だから、「しにたい」と呟いていても本気で心配しないでほしい。生きてることの素晴らしさなんて説かないでほしい。反論しないでほしい。「でも」も「しかし」もいらない。同意してくれるだけでいい。その気持ちを肯定してくれるだけでいい。そっと聞いてくれるだけでいい。それだけでいい。

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 でもまぁそうは言いつつも、それが万人にあてはまるわけではないことは理解していて、ちゃんと(?)強い希死念慮があって「しにたいなぁって最近めっちゃ考えちゃうんよね、、、」と相談する人もあると思うのでなかなか難しいところではある。

 自分がそういう追い込まれた状態になる可能性もゼロではないし、自分の精一杯のSOSがそんな風に聞き流されたらやはり絶望感が強くなるので、リスクヘッジとしてちゃんと聞いてあげるのが安牌かもしれない。軽く受け取った結果、相手が本気だった時のマイナスが大きすぎるので。

 そう考えだすと、軽い「しにたい」なのか、重い「しにたい」なのか見極めるためにはやっぱり「どしたー?」くらいの”探り”の返しが妥当なのかもしれない。

 そこの見極めがつくような関係性、言い換えると、軽い「しにたい」は適当に流してくれて、重い「しにたい」にはちゃんと向き合って聞いてくれる関係性の友人・家族がいるといいなと思う。みんなにそういう人がいればいいなと思う。自分がそういう人になりたいなと思う。まだまだ修行が必要だ。

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