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三島由紀夫と学生たちの教養主義

 皆さんいかがお過ごしでしょうか?

 先日、『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』を観ました。現在、AmazonPrimeVideoで無料配信中なので、私もそれで観ました。

 感想としては、すごく偉そうに聞こえるかもしれませんが、それなりに楽しめました。三島由紀夫と東大全共闘との討論の映像は、細切れで見たことはあったのですが、これだけの尺の映像は見たことがなかったので貴重でした。

 さて、この映画を観て意見や評価が分かれるのは、討論の内容の分かりにくさだと思います。学生たちは、何やら難しい言葉を使って、かなり抽象的な話をしています。「この学生たちは難解な言葉を使って、議論していて凄いなぁ」と思う人もいれば、「この学生たちは空虚な言葉遊びをしているだけじゃないのか」と思う人もいると思います。そして、私はどちらかと言えば後者です。

学生たちの教養主義

 さて、この映画をより理解するために、当時のエリートとされる学生の考え方やそれを取り巻く環境について知っていると便利です。
 当時の東大生たちの雰囲気を知るのに、高田理恵子著『グロテスクな教養』(ちくま新書)が参考になります。

 本書は、教養主義とは何か?について答えてくれるものではなく、教養についてどのような言説がなされてきたのかを時系列的に提示したものになっています。当時のいわゆるエリートと呼ばれる学生たちの言動を理解するのに役立ちます。

 彼らは、自分がたんなる勉強ができる秀才ではないことを示そうと、読書を通じて教養を身につけようとしました。本書では、天下のエリート校であった第一高等学校の入寮式で、自治寮委員長が新入寮生に開口一番言ったことが紹介されています。

「諸君は受験闘争にうちかったというよりも、全く偶然に数時間の試験において小賢しき技によって紛れ込んできたと思うべきである」(網代毅『旧制一高と雑誌「世代」の青春』)。

 いかにもなエリート宣言で、笑ってしまいます。おそらく、最近の有名大学の学生でこのような発想を持つ人はほとんどいないのではないのでしょうか。

 自分はペーパーテストが得意な「がり勉」ではない。そのことを示すために、難解な哲学書や海外文学の翻訳などを読み、それを理解できたように装いながら(そうしないと単なる受験秀才だと思われる)、学生間で競うように社会的な問題に対して抽象的な議論をする。
 『グロテスクな教養』の著者である高田氏によれば、これは閉じたエリート空間の中だけのいびつな現象であり、はたから見れば、鼻白むんでしまうものでした。

子どもの背伸び

 学生のうちは背伸びするものです。何やら難しい本を読んで、わかった風なことを言ってみたり、自分でもその意味はよくわからないような難解な言葉や概念を使ってみたり。そして、あるとき「自分は何もわかっていない」ということを悟り、一人内省します。これは自己の成熟に必要な道程なのかもしれません。ただ、エリート集団(今回で言えば、東大全共闘)という閉じた世界では、そういう意味での成熟は不可能だったことでしょう。
 このような観点から見ると、この映画は「三島由紀夫VS東大全共闘」や「右翼VS左翼」といったものよりも、「子どもVS大人」といった方がマッチしているのかもしれません。

 ただ、「自分が当時東大生だったら、どうだったか?」を考えると、当時の学生たちの雰囲気に吞まれ、同じように教養主義をこじらせていたでしょう。故に、三島と議論する学生たちをあまり強く非難できない自分がいます。

三島由紀夫の器量

 一方で、三島由紀夫の懐の深さには圧倒されます。三島は、学生たちの議論に対して論破しようとしません。挑発的な発言に対しても、笑いで返す余裕ぶりを見せ、相手の曖昧な主張を突いたりせず、常に開かれた対話をしていました。真の教養人たる三島由紀夫の本領を見ました。三島は東西の古典に通暁し、さらにそれらを自分の言葉で伝えることができる人物です。そんな三島の怜悧な頭脳と機転の利く柔軟さの一端をこの映画では見ることができます。


 最後に、この映画は映画としてはやや消化不良かもしれません。NHKのドキュメンタリーでちょうどいいもののように感じます。如何せんTBSが持っている映像なので仕方がありませんが。まぁ、アマゾンプライムビデオで、BGMとして見ても(聞いても)損はないと思うので、ぜひご覧ください。

 今回は以上です。

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