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ゴーストの囁きで再定義される自己と環世界のノイズ - 追悼記録

田中敦子さんの訃報と『攻殻機動隊』が提起する哲学的考察

 何度、死に直面しても、人間はまた会えると思っている。恐らく死を正確に捉えられるようになると、恐怖と別れの悲しさに脳が耐えられないのかもしれない。電脳化したらまず死を実感できる状態にしたい。

 田中敦子さんの訃報に接し、深い悲しみとともに、『攻殻機動隊』、そして草薙素子というキャラクターを通じて提示されてきた数々の哲学的な問いが再び頭をよぎります。少し頭が整理されていないですが、そんな時こそ散文を来年の自分に向けて残す良い機会なのです。

実は4-5年前までは私は攻殻機動隊を見たことがなく、大変恥ずかしながら10年くらい前まではパトレイバーなどのアニメとのビジュアル的な区別が頭の中ではつかないくらい敬遠してしまっていました。(SFは好きで、比較するものでもないですがサイバーパンクやエヴァ、ブレードランナーなどを通ってきているのに)

『攻殻機動隊』は、単なる漫画やアニメ、映画という枠を超え、現代社会の複雑な問題を分かりやすく反映しており、特にこの4-5年の私にとっては哲学的な思索を誘発する知的な装置であり続けていました。また攻殻機動隊における草薙素子という存在は、現代における意識のあり方、デジタルと物理の境界、そして人間性の探求において、極めて重要な象徴といえます。今回は、彼女を通じて浮かび上がるテーマについて深く考察し、その記録と自分が作品を通して考えていることの一部を哀悼の意と共にここに残します。(環世界の話もつながるのですが、それは先日noteに書いたことと同じなので、来年の自分よ、察してください。)

ケインズのアニマルスピリッツとライ麦畑

 「ライ麦畑でつかまえて」と対比することでより好きになった攻殻機動隊。その中でも好きなセリフのテーゼ、アンチテーゼは下記です。

「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら、耳と目を閉じ、口を噤んで孤独に暮らせ。それも嫌なら…」

攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX

これは作中のアンチテーゼでありつつ、後述するマタギドライブやアニマルスピリッツな考え方を引用すると私は自分自身だけに向ける分にはエクリチュールの言葉として捉えても好きな言葉です。経済学者のケインズが戦時中に述べた"アニマルスピリッツ"、つまり主観的で非合理的な動機や行動は、攻殻機動隊でいう"ゴースト"と近しいものを感じています。(イコールではないですが)

「僕は耳と目を閉じ口を噤んだ人間になろうと考えたんだ」
I thought what Id do was, Id pretend I was one of those deaf-mutes

ライ麦畑でつかまえて - J.D.サリンジャー

テーゼはライ麦畑でつかまえてからの引用と理解。自分のスタンスとして大切にしている "明日と明後日で考える基準を変え続ける" ことや "自ら機会を作り、機会によって自らを変えろ" という言葉はマッチョな思想ですが、同時に、それは決して世の中に従属するために自分を変えるようなニヒリズムの考えではないことは補足。

「ネットの広大な海」と集合意識の再構築

 草薙素子の発した「ネットは広大だわ」というセリフは、単なる感嘆ではなく、現代のデジタルネットワークにおける意識の存在と再構築を象徴しています。『攻殻機動隊』が1989年に発表された時点では、インターネットはまだ黎明期にありました。それにもかかわらず、この作品は、ネットワークがどのように個人の意識に影響を与え、またそれを再構築していくかという未来の展望を予見しています。草薙素子は、全身を義体化し、脳と脊髄の一部を除いて機械と融合したサイボーグです。その存在は、人間の肉体が物質としての限界を超え、ネットワークを介して再定義される過程を体現しています。

草薙素子が「ネットの広大な海」と形容したのは、ただ単に情報の広がりを指しているだけでなく、ユングの「集合的無意識」のように、無意識の深層にある集合的な意識がインターネットという広大な領域で再構築されていることを示唆していると思います。ネットワーク内での意識の再構築は、デジタル時代における私たちの自己の再定義に深く結びついており、草薙の存在そのものがその問いに対する答えを模索し続けていると考えています。

デジタルネイチャーと「ノイズの消失」

 少佐の「ノイズがないって素晴らしいわ」という言葉は、デジタルと物理的な現実がシームレスに融合することの美しさを表現しています。このセリフが示唆するのは、デジタル技術が自然そのものと区別されないほどに融合し、人間の認識に新たな自然観をもたらすという考えです。ここで重要となるのが「デジタルネイチャー」の概念です。

物質世界(Material World)と実質世界(Virtual World)の間に存在する選択肢が多様化し、計算機科学が新たな自然観を生み出すという視点。「計算機自然」は、計算機技術が自然界の一部として機能し、それによって生まれる新たな文化的価値の創成を意味しています。草薙素子が感じ取る「ノイズのない世界」は、まさにこの計算機自然が物質と実質の境界を超えて、シームレスに人間の認識に溶け込む瞬間を映し出しているように思えます。

デジタルネイチャーの視点から考えると、草薙素子の存在は、人間と機械、物質と実質の境界が曖昧になる中で、新たなアイデンティティの形成を示す象徴といえるでしょう。彼女が全身を義体化し、計算機自然の一部として存在することは、テクノロジーが人間性をどのように変容させるかという問いに対する一つの答えではないでしょうか。


電脳化と脱構築の思想

 少佐が全身を義体化し、電脳化された存在であることは、デリダの「脱構築」の思想とも深く関わっていることを思い出します。デリダは、テクストや言語が固定された意味を持たず、常に変化し続けることを主張しましたが、少佐の存在そのものがこの「意味のずれ」を体現しています。彼女の意識は、ネットワーク内で絶えず再構築され、自己のアイデンティティが固定されたものではなく、流動的に変化し続けるプロセスを示しています。

デリダが述べたように、意味やアイデンティティは常に不確定であり、その変化の中で自己がいかに再形成されるかが重要です。電脳や義体の存在は、デジタル時代におけるこの問いに対する一つの応答であり、電脳化された存在が示すのは、アイデンティティが物理的な身体に依存しないという新たな自己の定義です。それらは計算機自然の中で自己の存在を問い続ける存在であり、その姿は、現代における人間のアイデンティティの流動性を象徴しています。

『1Q84』と『1984』、そして『ライ麦畑で捕まえて』

 村上春樹の『1Q84』とジョージ・オーウェルの『1984』は、どちらも現実と非現実、支配と自由の境界を問いかける作品です。『1Q84』における二重現実の概念は、草薙素子が直面する現実と仮想の境界と深く重なり合っています。二つの月の存在が示すように、私たちが直面する現実とは何か、その中で私たちがどのように存在するのかという問いは、『攻殻機動隊』の中で徹底的に探求されています。

ジョージ・オーウェルの『1984』における監視社会の概念は、『攻殻機動隊』の世界観にも強く影響を与えています。オーウェルが描いたディストピア的な監視社会は、ネットワークが個々の意識をどのように監視し、影響を及ぼすかという問題を鋭く浮き彫りにします。法を尊重しつつも、非合法な手段を躊躇なく用いるのは、この監視社会の中で自己を守り、アイデンティティを保つための戦略でもあるのかもしれません、あくまでSFの中で。

また作中にも登場するサリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』におけるホールデン・コールフィールドの問いかけは、無垢を守りたいという願いを超え、自己の存在をどのようにして再定義するかというテーマに深く関わっています。『攻殻機動隊』における自己探求と再構築のプロセスは、『ライ麦畑で捕まえて』が描く無垢の喪失と再発見のテーマと重なり合っているように思えています。

声が遺したもの

 田中敦子さんの死は、これらの深遠なテーマに再び光を当てさせるとともに、私にエクリチュールとしての表現の機会を与えてくれました。草薙素子の声は、単なるフィクションのキャラクターを超え、私たちが直面する現代の複雑な問題、特にテクノロジーと人間性の相互作用についての深い洞察を提供し、その声が消えることは、一つの時代の終わりを意味すると同時に、これらの問いが決して消えることのない永続的なものであるとも思います。

マタギドライブと再帰的なアイデンティティ

 この1-2年考え続けていた「マタギドライブ」という概念は、デジタルネイチャーの進展に対する反動として、狩猟採集的な生存様式への再接近を示唆する可能性もあると思います。これは、柳田國男や柳宗悦の思想を踏まえ、テクノロジーが高度に進展した社会において、再び「自然」との関係性を再考する必要性を強調しており、攻殻機動隊の中で義体化された存在がテクノロジーの極致に達している一方で、そこに宿る「ゴースト」には、人間の根源的な自然への回帰を望むような側面が見られます。マタギドライブは、デジタル社会の中で再び自然とつながり、人間性を再発見する試みであり、草薙素子の存在とも深く共鳴しています。

マタギドライブはまた、柳宗悦が提唱した民藝運動と共鳴します。柳が日常の中にある美や手仕事の価値を再発見したように、デジタルネイチャーの時代には、テクノロジーと自然が融合した新たな民藝、つまり「テクノ民藝」が生まれつつあります。これにより、人間は再び創造的な活動に従事し、テクノロジーによって自動化された社会の中で、独自の文化とアイデンティティを構築することが可能となります。「ゴースト」は、この独自性の上で強く成り立つものなのかもしれません。

ノイズのない世界で

 デジタルと物理の境界が曖昧になる時代において、草薙素子という存在は、自己のアイデンティティや存在を探求する重要な象徴として、今後も私の中で生き続けるでしょう。田中敦子さんとその声が遺した最も重要な遺産は、草薙素子を通じて現代の複雑な問題を考察し続けることの価値を教えてくれたことです。彼女の声とともに私たちの記憶に刻まれ続けるでしょう。

「民藝」の精神と共鳴し、人間が再び自然と深くつながりながら、自らの文化とアイデンティティを再構築するテクノロジー、そこに私の偏愛を重ねながら。

最後に、攻殻機動隊で好きな言葉を残しながら、今後もバイブル的に読み返せるようにしておきます。

我々の間には、チームプレーなどという都合のよい言い訳は存在せん。有るとすればスタンドプレーから生じる、チームワークだけだ。

課長

未成熟な人間の特徴は理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある、それに反して成熟した人間の特徴は理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある

J.D.サリンジャー

三島由紀夫も好きです。金閣寺リスペクト。

人はおおむね自分で思うほどには、幸福でも不幸でもない。肝心なのは、望んだり生きたりすることに飽きないことだそうだ 。

荒巻大輔

「ゴーストのない人形は哀しいもんだぜ。特に、赤い血の流れてる奴はな」

バトー

「バトー、忘れないで。貴方がネットにアクセスするとき、私は必ず貴方の傍にいる」

草薙素子

ご冥福をお祈りいたします。

余白がないとSFは読めない。

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