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環世界と計算機と余白の交差点にある物語

 最近深く読んだ本を整理しながら、日常において喜怒哀楽色々な感情を行き来する(感情は表出するというよりは自覚するだけ)ことで、自分の中で節目となるタイミングもあり思考が整理されてきたので、半年か1年先の自分に向けた記録を。

「スティグマのない社会を見たい」という目的は変わらないものの、明日死んでも良いように今日を生きる中で明日があるなら、どういう未来に自分がいたいかの解像度が上がってきた。そんな時の嬉しい感情は特に忘れっぽい。普段の生活では、分かりにくいことは分かりやすく伝えますが、自分の為に分かりやすく書くと色んなものが抜け落ちるので今日は兎に角走り書き。心から嬉しいこととその感情も日々時間と共に薄れるので、そうした記憶の記録の役割をnoteは担っています。

本題。

計算機による物語の再構築

 デジタルとかテックという言葉は人によってはアレルギー反応が出たりえげつないバイアスが働くらしい。だから伝わらないことも多いと理解。

環世界を想像する上でフィルムカメラを超えるものをまだ見つけられていない

現代におけるテクノロジーと自然の融合は、単なる技術的進化にとどまらず、人間の認知と存在の在り方をも変容させるものになっている。日々忘れることのないユクスキュルの「環世界」という概念を考慮すれば、あらゆる生物が自らの認知的枠組みに基づいて世界を構成していると理解できる。テクノロジーの発展によって、人間の環世界が拡張され、私たちは新たな視覚、聴覚、そして触覚の次元を通じて、自然界の複雑な相互作用を観察できるようになったが、一方で社会モデルで言う"障害"が蛸壺化しやすいことや、物理的に次元を超えることができるようになったからこそ想像されない環世界もあると感じている。

AIをはじめとする計算機はこの「環世界」の拡張を可能にするツールとしても機能しており、そこに面白さがある。我々が通常の感覚では捉えきれない自然界の微細な生態系や他人の思考を仮想的に再現する役割を果たすことができるおもちゃという感覚。ハル・フォスターが『デザインと犯罪』で述べたように、テクノロジーとアートは人間の認知を拡張し、新たな意味を創出する媒体となる。計算機シミュレーションを用いることで、虫と植物が織りなす生態系をデータとして取り込み、その動態を視覚化し、解析することができると言うアプローチの一方で、人間同士の新たな意味の創出とはもっとウェットなアプローチで"思想を拡げる"みたいな文脈から生まれることもある。意味付けの定義は中々難しい。

メディアアートと物語の余白

 自分が大好きなメディアアートの分野においても、計算機による自然界の再構築は重要なテーマとなっている。杉本博司が指摘するように、アートは「存在のリトリカルな表現」として、現実と虚構の境界を曖昧にする。デジタル技術は、この曖昧さをさらに広げ、私たちに新たな物語の余白を提供する。この辺は言語ゲームが働くから考えすぎるのも良くないと思って手を動かしたり、鑑賞したり、場所を移動することを意識している。

VR技術を用いて昆虫の視点から自然界を再現することで、私たちは通常の人間の感覚では捉えきれない新たな物語を体験することだってできる。これは、「余白」つまり私たちの経験の外側にあるものに目を向けさせ、それが想像力を刺激し、新しい解釈を導き出す契機となる。ジェフリー・ショウやモーリッツ・ヴェッツェルらが実践するインタラクティブなメディアアートも、鑑賞者にこうした新たな視点を提供し、物語の余白を探求する場を提供している。デリダの言葉を思い返しながら、物語の余白と言えば「星の王子様」と「モモ」を思い出しつつ、ああそうか、そもそも物語を楽しむ余白がある人間と全然出会えていないと気付く。鑑賞者という存在が人間だけだと思っているのも強いアンコンシャスバイアスと思いつつ。

ミヒャエル・エンデは良いことを言う。モモを読んだことのない人と「時間」やラッセルの幸福論的な話をするには対話時間がかなり必要であることも最近学んだ。唯、その対話も中々に楽しく学ぶことも多く、自分が本を読む時間と同じ時間、他人は違うことを体験している。

物語の余白を感じるのは大体木漏れ日を見る余白がある時

AIと生態系の新たな物語

 まとめるとJカーブがそり返りそうなくらいの技術進化により、私たちは経済も含めた生態系の複雑な相互作用を予測し、未来のシナリオを構築することが可能となってきた。物理学、生物学、情報科学の観点から学ぶ上ではシモンドンの主著を参考にする。これはちょっと難しいし、予想が可能なことと予想が当たることは別。機械と人間の共進化の必要性を考えつつ、テクノロジーが人間の知覚や経験をどのように変容できるのかに期待を覚えている。

アナログなフィルムだけを使うことで生成AIとの行き来を楽しむ

AIを用いることで、(人間も含めた)生態系の変化を予測し、その結果をシミュレートすることは、単なるデータ処理にとどまらず、現実を反映したリアルな物語を生成する手段となる。凄く簡単に言ってしまうと、「何かの概念が変わる」という物語はあくまで個体観点のものであって、社会通念の変化を客観的に観測することもできず、非常に自己満足的な物語として完結してしまう。世代交代によるパラダイムシフトによることも多い。そこには幸福や変化も確かにある。唯、一つのコミュニティにいるとそれに気付く客観性も失われる。

一方で社会モデルで考えた時に「障害そのもの」が物理的に無くなる、例えばロービジョンの課題を解決する技術が生まれる、ということは新しい物語を生み出すことになる。眼鏡やコンタクトも技術の一つで、そこには技術が市場をつくり資本や贈与の循環も生まれるという意味で世代交代を待つ必要もなかったりする。こういう意味での生態系が大事という話。ここは二元論ではないのだけれど、10歳から20歳までどっぷりテックにいて、社会人からは敢えてテックと距離を置いてビジネスモデルみたいな抽象的すぎる世界にいたから気づいたこと。何周か考えは回っている。

アイデンティティも壊しうるこの新たな物語は、私たちが自分たちが所属する環境(≒コミュニティ)問題への新しい視点を提供し、その選択肢を私たち自身の物語として受け入れることを促すように思う。デリダが『グラマトロジー』の説明の中で示したように、実存する手段の一つ(ここでいうテクノロジー)は単なる手段ではなく、それ自体が物語の生成装置として機能し、人間と自然との関係性を再構築する役割を果たすと考えることもできるだろう。

デジタル再現と倫理的ジレンマ

 自然(これは環世界の意味も含むし、人間が何もせずに生きていて見えている世界をイメージしている)をデジタルで再現したり拡張する行為には、技術先行では気付けない問題もあると思う。『技術と時間』で論じられるように、技術が人間の時間感覚や存在感をどのように変容させるかを考えると、デジタル技術を用いて再現された自然(定義の説明が面倒なので来年の自分よ理解してくれ)は、果たして現実の生態系を忠実に反映した上で拡張できているのか、それとも計算機の限界や人間の視点によって歪められたものなのかという疑問がまだ解決しきれていないことが最近の悩み。(悩みということは考えられていないということ)

この倫理的問題も伴うようなジレンマは、私たちがデジタル技術を用いて自然や人間とどのように向き合うか、またその結果をどのように受け入れるかを問う重要な視点かもしれない。私たちは、テクノロジーが生み出す物語の余白を楽しむと同時に、その背後にある現実を見つめる責任を負っているのかもしれない。

激流の中で冷静に余白を楽しむイメージ

社会彫刻としてのテクノロジー

 テクノロジーの進展に伴い、自然と人間の関係性は新たな共生の形を模索している。例えば分かりやすすぎる例で言うと、スマート農業や環境モニタリングシステムは、自然界のデータをリアルタイムで取得し、それに基づいて持続可能な農業や環境保全を実現する。これは、ユクスキュルの環世界の概念をテクノロジーによって再構築する試みと見ることもできる。大分飛躍させているけれど、来年の自分は読み取るはず。

ヨーゼフ・ボイスが提唱した「社会彫刻」の概念を適用するならば、テクノロジー自体が社会の中で果たす役割を拡大し、自然と人間の新たな共生を創出する道具として機能し得る。テクノロジーは、私たちの認知や存在を拡張し、自然との新たな対話を生み出す鍵となる。ここに対してのジレンマとして、テックへのアレルギー反応が多い人が意外と身近にもいることや、ディープテックを作れない人間がディープテックを他人事化しすぎていたり、理解できないものを否定したくなる人間の愚かさを感じている。自分が作れないものを作れる人へのリスペクトが足りていない場面によく出会う。

ピントが合っていないようで合っているのは対話と同じで、この記事も誤解され続ける

何が言いたいのかではなく何を理解していないのか

 「虫と植物と経済も含めた生態系を計算機として捉えながら、新しい物語の余白を楽しむ」というテーマを念頭に置きつつ整理に努めてみた。自然とデジタル技術の共生の形がぐにゃぐにゃと変化する楽しさを感じながら、これからの社会においてますます重要となるテクノロジーによる"余白"を作る行為。技術によって私たちの認知や経験が拡張される中で、その技術をどのように利用し、自然や人間との新たな物語をどのように紡いでいくかを問い続けたい。そしてシンプルに軽やかに社会モデルの"障害"を解決していきたい。

技術の進展は、単なる利便性の追求にとどまらず、私たちが持つ創造力と想像力を最大限に引き出し、新たな共生の形を模索する機会を提供してくれていると感じる日々。私たちは、計算機によって生み出される物語を楽しむだけでなく、その裏に潜む倫理的な問いにも向き合いながら、未来を形作っていく必要もある。それは、自然とテクノロジーが交差する地点で生まれる現場感を何より大切にすることであり、ずっと進歩し続ける分野において学ぶことと、現場で日々課題ドリブンで瑣末な出来事に自分ができることをひたすら試すことが当たり前の世界にいることの居心地の良さがあるのかもしれない。ここは泥臭いけれど良い香りがする現場。

トラディショナルなのは文化だけで良くて、祈ることは背水の陣を敷くこと

兎に角、トラディショナルでクラシックな資本主義の中で思考停止してキャリアやお金を目的に生きるのではなく、コンテンポラリーでエクスペリメンタルな象限の中で、課題ドリブンでその課題それ自体を解決する術を共に作り続ける為に、大切な人たちと時間と空間を共有できるようにしたい。

色んな本を読み漁っていても実は大して良いことはなくて、本を読む時間以上に手を動かすことと、日々大切に思える人と他愛ない話をしながら、明日と明後日で価値観を変え続けられるようにすることの方が楽しい。ただ故人との対話は本でしかできず、1年共に生活するより本一冊から学べることもある。その循環と生活リズムの中で取捨選択することが自分が見たい景色を作ることに繋がっている。どれも欠けさせてはいけないし、どれに執着してもいけない。

"余白"を障害やスティグマの有無なく生みだすためにはどうすれば良いか考え続けた結果、めちゃくちゃ散らかった頭になっているので、来年の自分が気づいたことは追記しておいて欲しい。未来を考えることは、未来の自分がどうありたいかを考えることでもあり、大切な人たちの未来を願うことでもある。

山口小夜子さんと話してみたい人生だった。
誰かにプロであることを求めはしないけれど、
偶に出会うプロであり続ける人間への敬意は強く感じます。


週明けはトラディショナルでクラシックな組織人として、今考えていることをできる限り分かりやすく話します。この往来も大事です。


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