「答え合わせ」では出会えない感動と、予測不能な歓び - 2024の回顧と感謝録
余白の本質を求めた今年の思索の起点
今年はウォールデンの森を彷徨い、探求し、森に入り森を出たりしながらテクノロジーに関する専門的な知見と、「体験」という行為の本質を探求し続け、順境も逆境も含めて全ての選択に満足できる年末になりました。その上で、作品と対話できるだけの健康に留意することが最優先と思いつつ、その上での余白をどのように見出すかを自分自身も試行錯誤する1年でした。
敢えて抽象化して振り返ると、10年以上続けている習慣ではありつつ、アートを楽しむ、美術館に多少気乗りがしなくても行く、という行為が精神的、時間的、情緒的な余白を生み出す為の鍵だったように思います。また実質に触れるときの肌理細やかさに心動かされることが多かったかもしれません。
TVやSNSで見た風景を「確認(答え合わせ)」しに行くような予定調和的な体験が主流となる現代において、アート鑑賞は予測不能な感動と、その後の日々を豊かにする示唆を私たちに与え続けてくれるからです。時に涙するほどの感動を伴い、その後の数日を豊かにしてくれる上、つくることの悦びにも回帰できる。そんな体験の価値を改めて見つめ直す年末にしたいと思います。
不在と記憶の交錯
直近の話を持ち出すと、三菱一号館美術館が1年半ぶりに再開しました(めでたい)。「不在」展での体験は、作品が発する曖昧な存在感との対峙から始まり、モノクロの線に少しだけ色を添えるような展示の表現が印象的です。ふと動機づけされたのは写真に絵を描き加えるような遊びで、どこか記憶に引っ掛かる断片を浮かび上がらせたいという衝動。そして、その断片がまさに「不在」を象徴していたと思いつつ。
不在を意識する中で印象的だったのは、色彩の「不在」と「存在」でした。モノクロで構成された作品、その中にわずかな色が漂う。ロイ・フラー嬢の踊る姿を彷彿とさせる線の動きが画面全体を満たしていたりする。全てを描かないという選択、特徴だけをモチーフ化するアプローチは、見る者の想像力を最大限に刺激してくれます。
余白がつくる対話の場
人生で初めて海を見た時の記憶のように、重要な体験であってもその細部は認知すると驚くほどに曖昧です。ソフィ・カルの展示の中で、かけられた布をめくり作品と出会うような行為は、単なる保護や体験価値以上の意味を持っています。それは鑑賞という行為を儀式化し、観者の内なる不在との対話を促してくれることもあります。
例として一つの展示しか挙げませんでしたが、先日訪れた坂本龍一さんとの対話といい、アート体験は身体を通じた世界との新たな対話の可能性を開きます。それは単なる視覚的な確認作業を超えて、時に涙するほどの感動を伴い、その後の日々に豊かな示唆を与え続けてくれるもので、どれだけアーティストのことを知っていようが知っていまいが、予測不可能なものです。
デジタルとアナログの境界での余白
現代のテクノロジーは、新たな表現と体験の可能性を開いてくれています。しかし、それは従来の感性を置き換えるものではなく、補完し拡張するものとして機能していると捉えています。デジタルとアナログ、存在と不在の二項対立を超えた、新たな美的体験の地平が見えてきたような2024でした。来年はより創造性を刺激されるテックとの出会いがあることでしょう。
精神的、時間的、空間的余白がもたらす豊かさ
2024に改めて確信したのは、アート鑑賞という行為の本質的な価値です。予測可能性が重視される現代において、アートは依然として不確実性の価値を体現し続けています。この不確実性こそが、私たちの感性を覚醒させ、新たな創造性の源泉となると思いながら、多少気乗りがしなくてもとりあえず触れてみる、これがあくまで「私」という環世界を認知している身からすると非常に良いものだと思っています。
来年も実践者として、テクノロジーと芸術の関係性を探求しながら両者の調和的な共存の可能性を示唆する貴重な機会を作り続けましょう。同時に、現代における「体験」の本質的な価値を再確認する契機もより作っていきたい。(仕事という話でいうとPxDTが最高な職場なのは勿論、HERALBONYとも引き続き関わっています。その他yohakuは言わずもがな、色々な森にいます)
今年のTo Do的な振り返りは毎年8月に行なっているので、特に年末に触れるようなことはあまりありませんが、年末年始の美術館は大体空いているので、おすすめです。
大人の「砂場遊び」を探していた身体性拡張の試み
1つだけ答えが出ていないことがあるので、来年はテーマに追加して追っていこうと思うのでメモ。
身体性とは、言わずもがな身体を通じて世界を感じ、行為し、理解し、体感することです。それは単なる肉体的な動作ではなく、身体と世界(環世界)の間に生まれる相互作用、すなわち「生きた身体」が持つ可能性を指します。これを拡張するとは、身体と世界の関係性を再定義し、感覚や行為の範囲を広げることを意味しているという前提を置いた上で、デジタルな砂場の可能性 を考えていた1年でもありました。
もし大人が直接的な砂場で遊ばないとしても、技術の介入によって身体性を拡張する可能性が生まれます。例えば、マインクラフトのようなデジタル環境は、物理的な砂場を超えて、より広範な創造性と身体性の拡張を提供する場となります。VRやMRの解像度が異常に高いものをイメージすると良いかもしれない。(cf. Apple Vision Pro)ここで重要なのは、マインクラフトやVRといった技術が提供するのは「身体性」ではなく「拡張された身体性」であるという点です。
▼拡張より複合現実の重要性に気づいた2024(存在に感謝)▼
「大人は砂場で遊ばない」という根本的な遊び心の無さにも出会すことの多い1年でした。シンプルに面白いものが目の前にあっても、予測可能性が低いと遊ばない。自分の環世界の中での予測可能性しか考慮に入れない。これは身体性の拡張を考える上で象徴的な問いでした。(なんでも作れるAIがあっても何かをつくりたい人は結構少ないというお話)
大人という存在が、ある種の社会的制約や固定観念に縛られ、身体性の豊かな可能性を見失っているという示唆ですが、いまいちまだ答えはありません。「ひとり遊びをしてきたかどうか」という視点が恐らくダイレクトな答えなのですが、ここでの砂場は、身体性が最も自由に表現される「遊び」としての空間を象徴しているので誰かと一緒に砂場で遊びたいということなのかもしれません。(庭の話かもしれない)
▼VR体験で予測不能な技術を5万で試せる限界費用ロー時代▼
エクリチュールを用いるときは常に、誰にも理解されなくて良い世界線で生きていこうと、来年も変わらず。
「作品が語りかけてこない」ことを減らしたい2025
作品を鑑賞していると偶に、というかよく「作品が語りかけてこない」ことがあります。それは存在している作品とは勿論、不在である作者との対話もできていない時間です。
そうした時は常に「想像力のない奴は◯ね」という某映画のセリフを思い出しながら、「私に必要な経験をください。まだあるので。」という某漫画から得た私の軸を思い出します。
作品が語りかけてこないときは大抵、集中力がないか、私が作品の言葉について勉強不足なのか、こいつには語りかけても仕方ないと作者や作品が思っているのか、疲れているかのどれかです。
そういった意味で、気乗りしないまま美術館に足だけ運んだとしても、どれか一つくらいの作品と、作者の不在のどこか一部とくらいは対話できる余白を保てるようにしたい。
順境だと感じたらすぐに逆境に舵を切り替えられる健康を保ちながら、人心ばかり気にする有象無象の情報が氾濫する資本主義の中で軽やかに、来年もスティグマと闘い続けます。
最高の職場や友人や様々なパートナーに恵まれて感謝しかありません。個別でも伝えますが、来年もよろしくお願いします。
実存を媒介しない対話を
今年は恐らく100冊程度の本しか読めませんでしたが、今日みたいな問いへの答えは下記に集約されていると思います。それは分かりつつ、人に聞くより先に古典を読んだ方が早い、古典に学ぶことが殆どの中でも、生活の中でプロセスを楽しみたいところもあるのが不思議なところです。(それにしてもセンスとは本当に排他的な言葉…)
去年の自分と軸は変わらず、書いていることは大体ご縁に恵まれつつも苦楽(必要な経験として祈ったこと)も多く、実に良い一年でした。書きたいことを去年も網羅的に書いていたので省略。拾うものより捨てるものを増やし、社会的意義や意味のあるものを生み出し続けながら、自分には意味とか意義とかいう実存は求めず生物としての健康第一で生きます。
今日はK君の命日です。死ぬまで想い続けるでしょう。また松蔭先生と対話した上で来年のことも「今」になったら考えます。