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“誰も消さない世界”を後世への遺物とする為の2025 - 批評家にならず手を動かす狂愚の美学と環世界

 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。内省はいつもしているので特段考えることもないなと思いつつ、ジョン・ケージがmushroomsを愛した理由を常に心に刻みたいとも思い、松蔭先生の言葉に触れる時間が長かったのでそれらを振り返りながら新年の記事を2026年の自分に向けて(自分の為に書いているので現代訳はしていません)。

内に思ふことある者は、外に感じ易し。故に楽を聞きて哭する者あり、花を観て泣く者あり。上人内に已に思ふ所あり、乃ち外に感ずる所以なり。

安政二年(一八五五)九月「浮屠黙霖に復する書」
人間だけでない環世界と関わりながらグルーヴとノリで生きたい

止揚する狂気と静かな生死観

 2024年をふり返ると、「余白」という言葉を軸に、私自身が当事者であることを鋭く意識しながら資本主義と向き合い、4章限(コンテンポラリーかつエクスペリメンタルであろうとする姿勢と、クラシックでトラディショナルな仕組みにも敬意を払う態度)の判断基準を持ち続けるために、試行錯誤したように感じます。なぜ色々矛盾を抱えるのが好きなのかと言われると、「スティグマのない社会を後生に遺す手段を充実させたい」という願いがすべてを駆動しているからだとしか言いようがありません。

今年も松陰神社で祈りつつ

「私に必要な経験をください」 - 当事者性への祈り

 資本主義の荒波に揉まれ多少心身を壊しても、「私に必要な経験をください。まだあるならそれを私にください」という祈りめいた呼びかけを何度も行動原理にしていました。そもそも人は苦労や挫折を避けたい生き物かもしれませんが、辛い経験こそが当事者性を獲得する契機になる。そう確信してからは、困難をむしろ歓迎するような感覚に移行したのです。

落合さんがxDiversityの成果報告シンポジウムで “人生の困難や岐路で、自分がプロフェッショナルとして何ができるかを真に考える瞬間こそ、当事者としての熱を生む” と話していたように、人生の岐路で深刻な課題に直面するときこそ、当事者としての熱が生まれると痛感しています。どの仕事も常に背後には当事者としての痛みや敗北感が伏在しているからこそ、それが貴重な燃料へと変わるのではないでしょうか。抽象度の高い社会正義を語るだけでは届かない領域があり、けれども具体的に「苦しい」と感じた人間が動き出すからこそ、社会全体の“スティグマを無くす”という志がほんの少しずつ前進すると思います。

其の徒(中略)出く、「選不遇は天のみ、我れに於いて何かあらん。我は我が楽しむ所を楽しみ、以って慊らざることなかるべし。況や人の共に其の楽しむ所を楽しむあるをや」と。

嘉永二年(一八四九)閏 四月「児玉君管美島軍事(上人)を拝するを賀する序」

仕事という意味ではHERALBONYという森を去りながらも自分が信じる領域ではまたすぐに関わり続けており、PxDTではR&DのPMとして(まだまだ道半ば)、メタバース企業のCFO代行や、コーチング領域、そしてyohaku Co., Ltd.の稚拙な経営など、思い切り矛盾に満ちていそうで、軸は「スティグマのない社会を後生に託せる」為のあらゆる手段を持つための“越境”を経験してきました。ここで感じたのは、資本主義の荒波の中でも、「私に必要な経験をください。まだあるならそれを私にください」という決意や祈りのような言葉が私の行動原理だったこと。そして、その姿勢を貫いた先には、「履歴書に書ける美徳」と「弔辞で読まれる美徳」をどう折り合いをつけて結晶化させるか、という大きな問いがあったのです。

体は私なり、心は公なり。私を役して公に殉ふ者を大人と為し、公を役して私に、殉ふ者を小人と為す。

安政三年(一八五六)四月「七生説」

履歴書に書ける美徳と、弔辞で読まれる美徳

 社会はどうしてもキャリアや実績を評価しやすい仕組みを採っています。実際、私自身もいわゆる“評価されやすい肩書き”を得ることに心を割いてしまったこともあります。それらは確かに資本主義のルールにおいて意味のあることですし、自分を前進させるためには役立つ面もあります。けれど、胸の内では「数値化や肩書きに還元できない価値こそ、本当に大切なのではないか」と絶えず感じていました。

そんな折に、「弔辞で読まれる美徳」という言葉に出会うと、すべてが腑に落ちる思いがします。自分が死んだあと、誰かが「何十年かかってもこの領域で闘いたい」と思ってくれるような行いが、もしかしたら資本主義の論理よりも遥かに大事なことではないか - そう考えるだけで、毎日の動機が明確になる気がするのです。ある意味、「履歴書に書ける美徳」と「弔辞で読まれる美徳」の二刀流でなければ、スティグマを根底から解体するほどの力は生まれないのではないかと思います。どちらか片方だけでは足りない、そこには松蔭先生の存在が今も生きているように、同時にJokerがJokerという概念で存在した(しまっていた)ように、後世への最大遺物として自分ができることをやるだけです。

国常名分を出てもが己が責と為し、天下後性を以て己が任と為すべし。身より家に達し、国より天下に達す。身より子に伝へ孫に伝へ、雲仍に伝ふ。達せざる所なく、伝はらざる所なし。達の広狭は、行の厚薄を視し、伝の久近は、志の浅深を視す。

安政三年(一八五六)七月「久坂玄瑞に復する書」

「余白」と4章限の狭間で

 2024年は「余白とは何か」を問い続ける年でもありました。自分や他者の声を聞くための“心の余白”、可処分時間のバランスを意図的に取る“時間の余白”、思考の柔軟さを確保するための“脳の余白”、そしてAIや障害福祉や親子関係、あらゆる二元対立を避けるための“関係性の余白”。それらを徹底して観察してみると、私が「4章限」と呼ぶ矛盾がひときわ際立って見えた気がします。

具体的に言えば、コンテンポラリーでエクスペリメンタルな挑戦(例えば最新のテクノロジーや社会モデルの課題への取り組み)と、クラシックでトラディショナルな資本主義の枠組みへの敬意(たとえばCFOな投資家対応、組織づくりの古典的フレーム)という真反対のベクトルを同時に走らせる必要がある、ということです。ヘーゲル流にいえば止揚によって新たな価値を生もうとするわけですが、走りながらその矛盾を抱えるのは決して楽ではありませんでした。けれど矛盾を避けてしまえば、未知の可能性を発見する場面が減ってしまうとも思います。遠回りを厭わずに両方の軸を握りしめるという“行為”こそ、私が掲げる「エクスペリメンタル」の真髄かもしれません。実験せよ、という心構えも松蔭先生の狂たまえの教義に則っています。

俗論の見る所は形の上なり。君子の論ずる所は心なり。

安政二年(一八五五)八月「講孟劉記」

人の志を立つる、必ず二三十年を積みて、然り後釈然として信ずべく、昭然として見るべし。(中略)青年の俊才恃むに足らず、精誠至誠、是れ恃むべしと為すのみ。

安政三年(一八五六)十一月「赤川淡水の館中同学に与ふる書を読む」

批評家にならないための行動原理

「ポジションを取れ。批評家になるな。フェアに向き合え。手を動かせ。金を稼げ。画一的な基準を持つな。複雑なものや時間をかけないと成し得ないことに自分なりの価値を見出し愛でろ。あらゆる事にトキメキながら、あらゆるものに絶望して期待せずに生きろ。明日と明後日で考える基準を変え続けろ。」 - この行動規範もずっと変わりません。

ただの評論家で終わらないためには、実際に自分の立場を鮮明にし、同時に複雑な課題から目を背けない覚悟が求められます。さらに社会を変えたいというなら、それが金銭的な継続性とどう噛み合うのかまで踏み込まなくてはならない。そこに大きな嫌悪感を持つ方もいますが、資本主義を一方的に否定するだけでは現実の実装にはつながりません。この「行動しながら矛盾を抱える」態度が、想像以上に難易度の高い作業でしたが、同時に“時間のかかるテーマ”ほど愛でがいがあるとも感じます。抽象と具体を行き来するうちに、自分の脳の外部SSDが拡張されるようなイメージさえありました。それらは環世界を捉えるためにカメラを構える行為と直結しています。

余日く、「学は、人たる所以を学ぶなり。(中略)抑々人の最も重しとする所のものは、君臣の義なり。国の最も大なりとする所のものは、華夷の弁なり(後略)」と。

安政三年(一八五六)九月「松下村塾記」

広島に祈る意味

 今年も原爆ドームや平和祈念資料館を訪れると決めています。「一生けんめいすると、何でも面白いと思った」という被爆者の方の手記が、理不尽な死と生に真摯に向き合う強さを教えてくれます。幼少期にガザ地区の内戦をスクラップしたときの無力感を思い出すたび、もし自分がそこにいたらどうしていただろう、と考えずにはいられません。

想像力の限界を痛感しながら、それでも「誰かを消さずにいられるか」が問われるのだと感じます。資本主義と社会の歪みが生むマイノリティの排除と、戦争の構造との間にはどこか共通する論理があるように思えるので、広島の地に立つたびに、改めて「百難をもっと、全部、ください」と祈りたくなるのです。困難が当事者性を加速させ、スティグマ解消の推進力になると信じているからこそ、その倒錯を自分で引き受けようとしているのでしょう。自分が存在するコミュニティをよりよく維持したいだけです。

人は父母の存没妻子の有無等にて時々変革あるなり。確節の修行怠るべからず。

安政六年(一八五九)正月「佐世ル+、郎・聞部富太郎・入江村蔵あて書簡

狂愚まことに愛すべし、才良まことにおそるべし

 まともなルートを踏み外して“狂っている”と呼ばれるほどの行為が、往々にして新しい地平を切り拓いてきたことは自明です。フーコーの『狂気の歴史』を思い起こすとき、社会が定義する“狂気”と天才性の境界はあやういものです。それを「狂愚まことに愛すべし」と言わずして何と表現できるのでしょうか。

そして「才良まことにおそるべし」とは、才能のある人が創造的破壊を引き起こしうる力を持つ一方で、その影響力の大きさに対する畏怖でもあります。シュンペーターが言う“創造的破壊”の行き着く先では、ひとりの才覚が世界の仕組みを変容させることさえある。だからこそ、「諸君、狂いたまえ」と呼びかけたくなるのは、いつまでも安全圏から批評に終わるのではなく、危険を顧みず踏み出す力こそが当事者性を作り、社会のスティグマを切り裂くのではないか、と信じているからです。

其の徒(中略)日く、「遇不遇は天のみ、我れに於いて何かあらん。我は我が楽しむ所を楽しみ、以て慊らざることなかるべし。況や人の共に其の楽しむ所を楽しむあるをや」と。

嘉永二年(一八四九)閏四月「児玉君管美島軍事を拝するを賀する序
公を考えつつ四十而不惑までまだまだ

弔辞で読まれる美徳は後世への遺物に向かう

 これまで「余白」を軸に駆けてきた2024年を踏まえ、2025年はもっと深い矛盾と余白のなかに足を突っ込もうと思います。つまり、コンテンポラリー×クラシック、履歴書に書ける美徳×弔辞で読まれる美徳、当事者意識×資本の論理といった、いずれも両立困難なテーマをさらに突き詰めてみるのです。そこに面白さの妙を感じている。

ポジションを取り、批評家にならず、リスクと矛盾を背負いながら突き進むには、期待しすぎずに期待するという不思議な姿勢が必要だと感じています。しかし、それでも挫折を祈りに変えるような心の柔軟性をもてたなら、それこそが「私に必要な経験をください」という言葉の真価が心に届くことになるのかもしれません。仕事において「私たち」を考える時にはビジネス畑と人心を買う承認欲求ゲームのクソみたいな枠組みで生きる時間も増えますが、そんな時は松蔭先生の言葉を思い出しながら楽しみつつ。

故は資格に拘はり、或は門地を以て人を挙げ、賢才をば下僚に沈め、大豆宰相など重役に処る者も之れに倣いて、己が気に合う者、己れに媚び諂う者計りを上に進め、甚しきは賄賂を以て官を授くると云ふ様に至り、遂には上の威下に行はれず、法度掟も崩れ家格を取失び、邪なる臣下は権威を専らにし、民百姓は下にて愁ひ悲しむに至る、其の害甚大なり。

嘉永三年(一八五〇)八月「武教全書講章」

最終的に目指しているのは、私たちが死んだあとも何百年もかけて、誰かがスティグマと闘い続けるような本質的結びつきです。それは著書を残すことや企業を成長させることとはまた違った次元で、誰か一人の人生を底から支えるかもしれない。この「弔辞で読まれる美徳」は数値化と無縁なことこそ本質なのだと思います。また自分の死を悼んでほしいわけでもない。

「命を燃やしても灰にならない」という言葉をかけていただいたのが2024はかなり救いになっていて、私は私の灰と化した燃えカスが誰かの未来を照らす火種になるのではないかと信じています。燃え尽きるには怖さもありますが、それゆえに「百難をもっと、全部、ください」と祈れるのかもしれません。倒錯といわれても、スティグマのない社会を夢見るならば、挫折や破壊にこそ当事者が潜んでいると理解しているからです。

#誰も消さない 為の修練をこれからも

 皆さまにとっても、「私に必要な経験をください」と言える余白と、経験が実際に与えられたときそれを愛でるだけの柔軟さとを得られる一年でありますように。狭い常識に収まらない狂愚があってこそ、社会モデルを変革し、未知の未来を生み出せるのではないでしょうか。

体は私なり、心は公なり。私を役して公に殉ふ者を大人と為し、公を役して私に、殉ふ者を小人と為す。

安政三年(一八五六)四月「七生説」

どうか今年も来年も、健康と共に深い余白を味わいつつ、正気と狂気の境を楽しんでいきましょう。私自身も関わる皆さんとともに共鳴できる部分は共に本気で目指す覚悟です。同時に、みんな違ってみんなどうでも良いと思うこともあるでしょう。これを読まれる方が一人でも、「命を燃やしても灰にならない」と感じて生きられる機会があるなら、すべての矛盾が尊くあたたかいものになると信じています。

Faith, Trust and PixieDustと狂愚を兼ね備えたティンカーベル

To Do的な抱負は特にありませんが、今年はマタギ、写真とメディアアートの展示、茶道と華道、ライブはできる限り行き、いつも通り主な美術館の展示は網羅したい、くらいな1年です。定期的な焚火とキャンプでも余白を整えます。


無目的的に対話したいな、一緒に初詣したいな、と思ってくれる方はお気軽にお声がけください。明日も当たり前のように会えるかなんて本当にわからないので。


(追記)
ソローの森の生活を追従するとして、
月に1回本を調達しに街へ出て、
レコードで音楽を聴いて、
偶にマタギかAIで人のために仕事をして、
食べ物を美味しいと思えるだけの健康を保つ。

こんな誰でもできそうなことが名誉やお金、評価の奴隷になること(≒仕事)で全て崩壊する。

評価や評判の奴隷でない仕事をしていきたい。

ソローの言葉を借りると、仕事の本質を突き詰めると研究者か観察者にしかならないらしい。研究者には片足を突っ込もうとしつつあり、観察者という意味では環世界を捉えるために続けているフィルムカメラがそれに近い行為をしていると思う。これを来年の自分がどう捉えるのか楽しみだ。

2日はTOPで6年ぶりの雅楽に触れて
正月といえばMOT。今年もよろしくお願いします。

(追記2)

今、ここで、ノリとグルーヴで生きる。

「今、ここで、生きる。 実存を気にせず。」

 苦しみを抱えながら、それでも尚未来に向かって生き続ける。この行為そのものが、実存の表現そのものだ。たった2時間の中で、なぜこれほどまでに密度の濃い感動を得られるのか。それは、音楽や芸術が時間の流れを超越し、私たちの存在そのものに訴えかける力を持つからだ。人生が長く濃密になるほど、感動はより深まり、強く心に刻まれる。それはかつて、別れでしか涙を流せなかった私自身が、今では繋がりの中で涙する瞬間を持つようになったことからも明らかだ。

音楽とは、ただ美しい音や感動を提供するものではなく、その奥に思想や哲学、そして無数の歴史的・文化的蓄積を秘めている。坂本龍一の音楽は、その最たる例だ。彼の作品には、ジョン・ケージの自然哲学やメディアアートの影響が刻み込まれ、一音一音が存在と生命への問いを形作っている。彼の音楽を聴くことは、私たちに「Dig」 - その背景や文脈を深掘りする行為を促す。また、キズの来夢君の歌詞は、戦争や歴史への洞察、そして彼自身が海外で育ったことで感じた日本と世界の矛盾が見事に消化され、音楽へと昇華されている。その音楽は、ただ聴覚的な美しさを届けるだけではなく、矛盾そのものを抱きしめる態度を教えてくれる。外見やジャンルだけで敬遠する人もいるスティグマの権化みたいな中で闘っている尊敬できる存在。

音楽や詩はほとんどの万人が触れられるタッチポイントでありながら、その奥にある蓄積や深淵に到達する人は少ない。唯、坂本龍一やキズの音楽は私たちに「掘る」ことの重要性を問いかける。彼らの音楽に触れるたび、私は彼らの背後にある思想、彼らが紡いできた物語を深く掘り下げる。音楽は単なるエンターテインメントではなく、思想の器であり、私たち自身が世界を再解釈するための場である。

カフカやサルトルもまた、不条理や孤独の中で「生きる」という行為を全うした存在だ。彼らの作品は、読者に生きる勇気を与える。彼らが抱えた矛盾、不安、そして苦しみは、ただ耐えるのではなく、思考と表現を通じて再構築され、私たちに新たな視点を提供する。そして坂本龍一や来夢も、同じ覚悟を持って音楽を作り上げている。彼らの音楽は「この音楽を聴くために生きろ」と静かに、しかし確固たる意志を持って語りかけてくる。それは簡単に人に「生きろ」と言えるものではなく、音楽そのものがその理由となる覚悟と実力、深みを持っているからこそ可能だ。人に「生きろ」と伝えるだけでも相当な覚悟がいる。

彼らの音楽を聴くたびに思う。人生とは、単なる日々の積み重ねではなく、祝祭の場であり得るのだと。音楽が教えてくれるのは、生きることの豊かさと矛盾そのものを抱きしめる態度である。そしてその瞬間こそが、私たちが再び世界と向き合うための力を与えてくれる。

未来の自分がこれを読み解けるだけの健康でいることを祈りつつ。


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