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錯覚としての対話と美と共鳴 - 柳宗悦の写真観に寄せる美意識の輪郭

 本当の意味で対話が可能な人間は実質的にはほぼ存在しないか出会うこともなく、文脈のゲームを繰り返す中であくまで近い文脈の人間と出会った時に「対話できているかのような」錯覚に陥っているだけであると感じるこの頃。これはネガティブな意味ではなく、対話への憧憬と会話の貴重さを日々感じるが故のことです。(あと写真観という言葉は多分一般的にはないですが自分用の記録言葉です)

美意識の深層について。 柳宗悦の「美しい写真」に寄せて

 柳宗悦氏の紡ぐ写真観の言葉に出会ったのは、写真や美術と向き合う私自身の態度を見直す契機となりました。彼が「写真は自然を写すものではなく、むしろ自然を創るものである」と記述された記録が残っていたことと残してくれた方々に感謝しつつ、「美」とは何かを問う根本的な疑問に新しい光が差し込んでくるのを感じました。

先日訪れたインターメディアテクの展示『in Vitro? in Vivo! – 写真家 立木義浩 ✕ 東京大学』で立木さんの写真を観ながら、下記に引用する柳宗悦の「写真観」と環世界について思い出したのでその記録を。

死んでいるはずの標本が生きているかのように見えた
死生観と生死と写真観を感じつつ

「美しい写真とは何か」

仮りに景色を写すとしよう。
よい器械と、いいレンズと、経験のある写し手とがあれば万事すむと思われるかもしれない。だがそうではない。決してそうではない。

ここにいいハムレットの台本と、いい註釈書と、優れた英語学者とが揃ったとする。それでハムレットは充分読めると思われるかも知れぬ。併し文学としてのハムレットは到底それでは判らない。言語と文学とはまるで違うからである。

画家セガンティニはろくに字が読めなかったが、名文を残している。名音楽者ヨアヒムは時々音楽学校の生徒でも気付く様な音の間違いをやったと云う。してもるとものの美しさへの理解は,只器械的な知識だけでは駄目な事が分る。それも必要な事の一つではあるが、それよりもっと必要な一物がある。そうして此一物は殆どものの生死を決めるとさえ云えるのである。

同じ様な事が写真に就ても云える。「美しき写真」はいい器械と上手な写真師とだけでは駄目である。ものへの理解がなければ駄目である。 ものの美しさへの見方が悪ければ、写したとて、ものは死んでいる。大事なのは見方である。理解である。美への直感である。私は器械三分、見方七分と云いたい。写真は器械であると云う。それ故人が写すのではなく器械が写すのだと思われ易い、その結果こうなる。

ここに人間を離れた自然があって、それを器械が写すのであると。人は只その二つのものの間をとりもてばいいのであると。だが私にはそうは思えない。寧ろ其反対だとさえ考える。少なくともそう云う風にしてとられた写真にはあき足りない。又そう云う写真を私は「美しい写真」とは呼びたくない。

ここに自然がある。だがそれは只与えられたものに過ぎない。それが一つの内容をもってくるのは自然を見る見方が加わるからである。誰だって自然を見ている。併し誰でも同じ様に見てはいない。或者には深く或者には浅くより見えない。見ていても見ないのと等しい場合がある。又見ないでも心に深く見ている場合すらある。見方で自然の美醜がきまるのである。只与えられた自然はなまである。無内容である。まだ美しくも醜くくもない。それなら私はこう云おう。自然があるから美しいのではない。見方があるから自然に美しさが生まれるのだと。

自然を写すのが写真ではない。寧ろ自然を創るのが写真である。自然から写真が出来ると云うより、写真から自然が生れなければならない。そこ迄達しない写真には生命がない。写真は創作である。写真は写す者の見方によって創作される芸術だと私は云いたい。

ここに美しい自然があるとしよう。諸君よ、諸君はその写真以上に美しく自然を見る事は殆ど不可能なのである。美しい写真は、与えられた自然よりずっと美しい。そこ迄達しない写真はまだ充分に美しくはない。私達は美しい写真を通して自然を美しく見る事を教わるのである。いい写真は自然の自然である。そこに於て程自然の驚異が躍如として現出される場合はない。私は再び云おう、美しい写真程に美しい自然はあり得ないのだと。私達はそれを通して始めて自然を美しく見る事が出来るのである。此点ではよき絵画と同じ性質がある。

写真は真を写すと云うが、真を創ると云った方がいい。美い写真は、自然を創造する。写真の極意の一つは切り方であるが、場面をどう切れば自然が活きるか、既に此事は自然への見方が左右する事なのであって、器械が支配する事ではない。よき写真師は機械の完き支配者である。優れた器械が便利なのは、支配の自由が一層きくからとも云える。器械がいい程人間の創作の余地がふえる。

それ故美しい写真は単に外界のものの受取りではない。その写生でもなく複写でもない。寧ろそれが自然を産むのである。普通には見られない自然の美しさ迄産むのである。写真の使命はそこにあると思う。

一般には写真は単に自然の影に過ぎない位に思っている。実際そう云う下らない写真もあろうが、併し美しいものになるとそれは自然よりもっと真実である。それは新しい自然なのである。よき写真師は造り主の一人である。それ等の驚異を行う力は何か。それは単に物があるからではない、器械があるからではない、見方が造る不思議なのである。美への直感が産む驚異なのである。直感に包まれない自然は死物に過ぎない。

写真は近代に於て吾々の直感を活かす重要な仲立ちである。写真の発生によって、美の世界は拡大されてきたのである。美しい写真なくして将来美の教育は不可能である。私は写真の意義の重大な事を想う一人である。

『光画』創刊号(聚楽社,一九三二年)初出
(『柳宗悦全集』第二十二巻上(筑摩書房、一九九二年)を底本に現代仮名遣いにあたらめ掲載)

柳宗悦・美しい写真とは何か・『民藝』十一月号 第八三九号


「自然があるから美しいのではない。見方があるから自然に美しさが生まれるのだ。」  

柳宗悦『美しい写真とは何か』

 この一節が意味するところは、私たちが美と呼ぶものは与えられた対象そのものではなく、それを解釈し、感受する主体の「見方」によって生まれるものであるということです。ここで重要なのは、「美」は固定的な属性ではなく、主体と環境の関係性の中で生まれるという点です。

環世界と美の創出

 ユクスキュルが提唱した「環世界(Umwelt)」という概念は、私たちが世界をどのように知覚し、体験するかを決定づける主観的な枠組みを示しています。柳宗悦氏の言葉をこの理論に結びつけるならば、「美しい写真」とは単なる視覚的な複写ではなく、写真家の環世界がそこに刻み込まれた創造物であると解釈することもできるでしょう。

たとえば、日常の中で目にする何気ない風景や光景が、ある人にとっては詩的な情景として立ち上がり、また別の人には無味乾燥な背景として通り過ぎていく。この違いを生むのは、それぞれが持つ環世界の個性であり、それを「美」と感じる視点の深度です。

柳宗悦氏が「見方が悪ければ、写したとて、ものは死んでいる」と語るように、美は見る者の意識と感性によって動的に生成されるものです。これこそ、環世界がいかに美の認識に寄与するかを端的に示していると言えるでしょう。

ものを死なせてしまったと感じる私の写真

写真の役割と美意識の育ち方

 柳氏の主張の中で最も興味深いのは、「美しい写真は、自然よりもさらに真実であり、新たな自然を創造する」という考え方です。この言葉が示唆するのは、写真は単なる再現を超えた創造的な行為であるということです。そしてその創造性こそが、私たちの美意識を養い、広げる役割を担っています。

「美しい写真なくして将来美の教育は不可能である。」

柳宗悦『美しい写真とは何か』

美意識は学ぶものではなく、磨かれるものか、育つものだと思います。それは写真を通じて自然を見る新しい視点を得るプロセスの中で培われるものです。つまり、美とは教育的なプロセスを伴う経験であり、それを可能にする写真は、美意識の教育において重要な媒介として位置づけられると考えることは違和感なく腑に落ちてくるものです。

見る力の深化と対話

 柳宗悦氏の言葉を読み解く中で、私は「見る」という行為そのものの奥深さに改めて気づかされました。写真や芸術における美は、与えられるものではなく、主体の能動的な働きかけによって生成されるものです。この「見る力」が育まれる生活の営みを続けることが、美意識を深化させ、世界をより豊かに体験する機会となるように思います。

美しい写真とは、自然を再現するものではなく、新たな自然を生み出す創造的な行為とするのは今や当たり前なことかもしれません。但し、そのような写真が私たちに問いかけるのは、見ることそのものの価値であり、世界との関わり方であり、それらは無意識に通り過ぎていくものでもあると感じています。

彼の言葉に触発されながら、私はこれからも、美を発見する生活の中で、終わりのない問いかけそのものを続けることで「見ないでも心に深く見ている場合すらある」状態を身体知として獲得していこうと思います。

フランクルが語るような夕日の美しさはそれに近い

対話が不可能であり、あくまで文脈の共有に留まっているということは決して不幸なことだとは思っていませんが、言語で規定されるコミュニケーションをとり続けることには限界があると思います。それはこうして来年の自分へ残している言葉それ自体も例外ではありません。

対話とは、表面的には「言葉の交換」に見えますが、その奥底では、各人の環世界がどのように接触し、どの程度共鳴しているかにかかっています。柳宗悦が写真について述べた「見方」や「直感」が重要であるように、対話においても、お互いの文脈を理解し合うための「見る力」が問われます。しかし、その文脈は個々の経験、文化、感性に基づいて構築されており、完全に一致することはほぼ不可能かもしれません。

この場所がどこか誰にも分からない

対話するフリと共感するフリの狭間で

 私たちは、こうした不一致を乗り越えるのではなく、むしろ見ないふりをして、共通のフレームの中で対話している「ふり」をしているに過ぎないのかもしれません。それは、柳が語る「直感を伴わない写真が死物に過ぎない」と同じように、直感を伴わない対話は、ただの「音の交換」にとどまるという感覚すらあります。

この錯覚としての対話可能性を受け入れるならば、私たちは次の問いを抱えざるを得ません。それは、「対話が錯覚であったとしても、その中にどのような美を見いだせるのか」ということです。

美とは、柳宗悦が語るように「見方」によって生成されるものであり、錯覚そのものもまた「見る力」の作用によって美となり得ます。もし私たちが、対話が本質的に錯覚であることを理解し、それでもなおその錯覚の中に一瞬の共鳴を見いだせるとすれば、その瞬間こそが美的なものとして価値を持つのではないでしょうか。

対話が完全に成立しない以上、私たちはむしろ「不完全な共感」それ自体を楽しむことが必要なのかもしれません。その一瞬の錯覚の中で、相手の言葉や視点が自分の環世界に溶け込むような感覚――それこそが対話を美たらしめる瞬間であるように思います。

対話のきっかけとなる写真もありつつ

文脈のずれを引き受けること

 対話の本質が錯覚であるとしても、その錯覚を拒むのではなく、むしろ積極的に引き受ける姿勢を常に大切にしています。柳宗悦が写真を「新しい自然を創る」ものとしたように、対話もまた、他者との「ずれ」を通じて新たな視点や価値を創造する行為であると考えます。

たとえば、写真がその場にない自然を「見せる」ことによって鑑賞者に新しい視点を与えるように、対話もまた、お互いの文脈が重なり合わない中で、全く新しいアイデアや視座を生み出す可能性を秘めています。(止揚だと思えば分かりやすい)そのため、対話のズレや不完全さをネガティブに捉えるのではなく、そこから生まれる美しさや醜さ、延々と続く曖昧さに目を向ける楽しさもあります。

違和感の言語化は難しく、意図的に作った方が早い。

対話の美しさを問い続ける為の行為としての写真

 私たちは、対話という行為を通じて、他者と真に共鳴することは難しいのかもしれません。しかし、その「難しさ」や「不完全さ」の中にこそ、見る力を養い、美を見いだすためのヒントが隠されているように思います。

対話が錯覚であることを受け入れたうえで、それでもなおその一瞬の錯覚に価値を見出すこと。それは、美しい写真が一瞬の光景を切り取ることで自然を創り直すように、私たちの対話が新しい視点や価値を創造する行為として位置づけられるのではないでしょうか。

この問いを深めるたびに、存在自身の環世界を広げるための写真という行為、ひいては表現における全ての行為が人を媒介としてしか成立しない物語から、自然それ自体を媒介として、人を不要としても成立する物語に変化するのだと感じています。

雨の日を好きになれるのも雨と対話できるからで

私が獲得し続けたい美意識とは「10億円の豪邸」に煌びやかさ(≠美)を感じるようなほぼ全人類が理解できるものではなく「木漏れ日」に初めて気づいた人類が得た感動のようなものと、社会モデルにおける障害やスティグマが無くなる瞬間の景色それ自体を美しいと思えることです。

Perfect daysのように物語にすることも尊敬する

インターメディアテクのような場所こそ存続させたいといつも思います。

こいつ、動くぞ!

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