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ここらへんの史跡をゆく~補陀落 ふたたび

今年1月久能山東照宮を訪れた際、ある話を聞いて少し驚いた。「久能山東照宮と日光東照宮を結んだライン上に、富士山の山頂がある」というのがそれ。「えー? そりゃあ偶然じゃないだろ!」「でも意図したものだとしたらそんなことが技術的に可能だったの⁈」

調べてみると久能山と日光どちらの東照宮も、その場所には古代よりお寺が存在していた。そして家康の死後に、久能山はお寺があった場所、日光はお寺の傍らに東照宮が建てられていた。

更に調べると、ふたつの場所のキーワードは「補陀落(ふだらく)」だった。
まず、久能山にかつて存在したお寺の名前は「補陀落山久能寺」。
日光二荒山神社の神体である男体山は、古くは「補陀落山」と呼ばれていた。日光の地名は、補陀落 → 二荒 (ふたら)→ にこう → 日光 が由来と言う。
そう、日光は「補陀落」なのだ。

古代久能山と日光は「補陀落」で繋がっていた(に違いない)。久能寺から富士山を通過したその先に霊場を設けることには、確固たる宗教上の理由があった(はず)。そして日光山を開いた勝道上人とその一団は、卓越した測量技術を有していた(と私は空想する)。

※補陀洛(ふだらく)とは 
サンスクリット語Potalakaの音訳。観音菩薩が降臨するとされる八角形をした伝説上の山。二世紀頃から観音信仰が大乗仏教に取り入れられるとともに「補陀洛」は多数の経典に理想の地として描かれた。補陀洛思想は海上ルートで伝えられたことにより、東アジア各地に観音霊場としての補陀洛山を成立させている。中国の普陀山、韓国の洛山、日本の熊野那智や日光などである。チベットのポタラ宮も同一語源。

Wikipedia他資料より 

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と、ここまで(⇧) が以前の記事(⇩) の要約。

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直線上に並んだ史跡群を、レイライン(Ley Line)と呼ぶ。
今回のレイラインは「東照宮」や「徳川」を示しているように見えるが、実は「その前から存在した古いレイラインの上に、後から東照宮や徳川が乗っかった」ものだ。

下は、地図にラインを引き、関連する史跡をプロットした小生苦心の作。
これを見ながら、史跡の成立順(時系列)に整理してゆく。

600年頃  補陀落山久能寺 (静岡)  久能忠仁(来歴不明)の開基。
現在はここに久能山東照宮がある。富士山山頂と御前崎先端を結ぶライン上寸分違わずに位置している。偶然なのか意図したものかは不明。
平安時代は観音信仰の聖地として栄えた。

766年  四本龍寺 (日光)  勝道上人が開山。
平安時代に満願寺と名を改め、江戸時代現在の輪王寺に寺号を変えている。
久能山と富士山との位置を勘案し、意図して日光の地が選ばれたとするなら、それは全て勝道上人が考えて実行したことで間違いない。
※タイトル画像は勝道上人坐像(輪王寺所蔵) 

1221年  長楽寺 (群馬県太田市) 世良田義季の開基。
世良田義季は清和源氏の系統。新田氏の始祖である新田(源)義重の四男で、新田、世良田、得川(徳川)の姓を称した。この場所は新田氏の屋敷があった場所とされているが、何故ライン上に位置しているのか。単なる偶然なのか、ここでなければならない必然だったのか。今それを知るすべは無い。
もうひとつの謎。1530年頃徳川家康の祖父にあたる松平清康は、自らを「世良田氏の後裔」と称するようになった。これは源氏の血筋を名乗りたいがための血統の改竄とされているが、世良田氏の拠点がライン上に位置することも理由ではなかったのか。もちろんこれにも答えは無い。
※家康は世良田義季が名乗った得川(徳川)を根拠として改姓を行っている。
※松平清康が移転、改修した岡崎城は、久能山と同じ緯度:分に位置する。

1568年  武田信玄によって久能寺(現 鉄舟寺)がライン上の平地に移転。

1617年 久能山東照宮 創建  日光東照宮 創建

1644年    世良田東照宮 創建    上記長楽寺 (太田市)に隣接

1675年    土津(はにつ)神社 (猪苗代町) 創建 徳川秀忠の四男会津藩初代藩主保科正之を祀っている。日光からさらに北東約100kmのライン上に位置する。

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「今年の疑問は今年のうちに」と思い立ってまとめてみたが、疑問は疑問、謎は謎のまま終わった。逆に「長楽寺の世良田氏(新田氏)は何故そこにいたのか」などは謎が深まった感すらある。でもいい。謎は整理できたので、これからは想像を広げて楽しむことにする。親友の鈴木もそう言ってるし‥

親友の鈴木とは、日光山輪王寺の教化部長 鈴木常元氏のこと。彼と私は半世紀近い昔、東京で2年間同居した間柄 (ルームシェアという言葉は我々に適さない)。お互い別の場所別の道を歩んできたが、今でも心通う友だ。

私は鈴木に今回の疑問と謎をぶつけた。
「いったいどういうこと?」「知ってる秘密を教えて!」
しばらくして鈴木からA4×3枚の返信が届いた。そこには丁寧に日光山の成り立ちが綴られ、私の疑問に対して「わからない」との結論が記されていた。

私は深く頷き、ひとまず本件に幕を引こうと決めた。

  ※鈴木氏の手紙 末尾

貴兄の考える「久能山ー富士山ー日光山」については本当にわからない。
様々な学者や好事家が、後付けで諸説を唱えています。
ただ一番正しい答えは「わからない」ということだと思います。
人工衛星もドローンもない時代、意図してこれをやるのは不可能だと思う反面、特異な能力を持った人間か、或いはその集団がいたのではないかと、当時からそういった極秘の技術があったのではないかとも考えたいし、興味はつきません。
単なる興味でも良し、ライフワークにするのも良しだと思います。「知らないままのほうが良い」というスタンスもありだと思います。
何ひとつ解決できず申し訳なく思いますが、これに懲りずにいろいろと聞いてください。                        
                                                         合掌

< 了 >

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