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作文を続ける

前回の投稿から1ヶ月近くが経過してしまった。さほどのことでもないのだが、こまごま用事が重なって、あまり机に向かえずにいた。

どうしても書くべきことなど端(はな)から無いし、この頃は書きたいことが現れてもこない。コロナ禍での隠遁生活は既に1年半。言い訳に過ぎないが、この変化の無い生活に書かなきゃと思うような出来事はなかなか起こらない。そうなると陥りがちなのは、「オレは何でこの作文を書いてるの」「書く目的は何なの」というネガティブな思考。

note の一番最初の投稿に書いたように、今年の初めに作文を始めた元々の目的は、"ボケ防止" だった。考えを整理すること、それを文章化することはしんどいが楽しい作業だった。誰に見せるでもなく、毎日愚にもつかない駄文を書き連ねていたところ、勧めらることがあり note に公開を始めた。

公開を始めると、書くことの目的が少しずつ変わってきた。見ず知らずのたくさんの方々がフォロワーになって下さったし、家族も読んでいる。それなら何かを伝えなきゃいけないんじゃないのか‥と。

私はどんな人間で、それはどう形成されてきたか。前期高齢者の仲間入りをした今、自分の来し方をなぞってみたくなっている。幼年期、学生時代、社会人時代、どんな経験をして、その時どう感じてどう行動したのか。

過去をなぞる中で発するメッセージは、時に誰かのお手本になり、時に反面教師になるのかも。私は果たして何者だったのか、これからの余生は何者であるべきか。そんなゆるい一代記と、ゆるい遺言を綴っていこうと思うが‥

これまで私は、自分の過去の記憶にフタをして過ごしてきた気がする。自信満々で紹介できるほどの人生でもなかったし、現実の過去は、虚勢と虚飾と取り繕いの日々だったと思っているから。自分の卑しさ、悪さ、小ささに悲観したり、劣等感に苛まれる時期もあった。

過去をなぞることは、そんな記憶のフタを開けることでもある。素を見せることの恥ずかしさ、本音を明かす怖さ。今後どこまで曝してどう表現しよう。まだ全く腹は括れていない。

タレント、芸人にはプライベートをさらけ出し、ネタとして切り売りしている姿が見られるし、心の奥底に潜む人間の醜さを、敢えてえぐり出すような私小説もある。しかし私には、さらけ出しもえぐり出しもできない。

投稿が途絶えていることを、気にかけて下さるフォロワーさんの声も聞こえてくる。さーてどうしよう。スタイルや方向性を決めなければ‥‥

今回は、前期高齢者アマチュア文筆家の悩みをつらつら書きました。

< 了 >

P.S. 今回の文章を読み返してみると、暗くて裏表のある筆者像が見えてきますが、実際の私は「それほどでもない」と思いますので、悪しからず。

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