名もなき記憶の欠片たち。そして寂しさ
「目もくれず」という言葉がある。
少しの興味・関心も示さない。 見向きもしない。 という意味だ。
とめどなく眼に飛び込んでくる世界
人間の五感から得る知覚は、その大部分が視覚による。人は、一瞬一瞬、膨大に流れてくる情報を瞳に受け止め、凄まじいスピードで処理し、知覚と選別を繰り返す。視覚のそれは他の器官を圧倒的に凌駕する媒体なのだ。
たとえば朝、眠りから覚めた時。あなたは目を瞬かせながら外の世界を写していくだろう。波打つシーツや時計の文字盤、部屋に差し込む光や外の様子などの情報を受け止め、状況を瞬時に認識し、ベットから起き上がる。
私たちは、刹那の景色を、瞳というファインダーを通して覗いている。
選別から外れた景色たち
数多のものたちが瞬く間に知覚され記憶に刻まれていく一方で、シャッターを切られなかったものも、膨大に存在する。
上澄みを滑るかのごとく記憶の彼方へと過ぎ去っていくものたち。
わずかに目に留めることがあったとしても、一秒後には忘れ去られてしまう、なんでもないものたちである。
菅泉亜沙子 写真展「光芒の兆し」
2023年10月27日(金)~11月8日(水)
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JR高田馬場駅徒歩7分
(下落合二丁目歩道橋そば)
12:00〜19:00
※木曜日休廊、最終日17:00まで
菅泉亜沙子は、多くの人が目もくれないような、名もなき風景を捉える人である。
彼女の写真を一目見て「これはこういうものだ」と解する人は少ないだろう。
欝蒼と生い茂る木々と平坦な畠、風にたなびくビニール。海沿いに乱立している朽ちたプレハブ小屋。据え置かれた土嚢や排水管から伝う水。見切れたカバ…
どんな場所で撮影されたのか。そもそもこれは何を写しているのか。
そして、なぜ、写真家はこれを撮ろうとしたのか。
モノクロで浮かびあがる被写体たちは、硬質な輪郭を携えて、実存の力強さを孕んでいる。作品が放つ潔いほどの物質感に、写真家の光線のような鋭い視線を感じた。
しかしそれ以上の情報を、作品からは得られない。
まるで鑑賞者の思考や判断の介在を阻むかのように、静かな世界が広がっている。主義主張も、事件も、ドラマもここにはない。
ただ、存在している。一抹の寂しさを漂わせながら。
意識の焦点がゆらりとぼやけていく
写し出されるものたちに共通性や共感を見出せないのに、不思議な既視感を覚えるのは何故だろう。
どこかで見たことがある、馴染みのある景色。記憶の片隅にあった(ような)懐かしさを帯びた残像がじわりと浮かび上がってくる。
Strangerの眼差しが問いかけるもの
菅泉氏に話を伺うと、特定の被写体や場所に捉われることなく、あえて無作為に撮影地を決めているそうだ。自らに縁のない土地を訪れ、歩き、片隅の風景をカメラに収めていく。とてもユニークな試みだと思う。
被写体が醸し出す心地よい距離感は、常にStranger(よそから来た人)である写真家の眼だからこそ現せるものだろう。
その一方で、作品から何かの共通性を見出そうとするのは…縁もゆかりもない被写体に不可思議なノスタルジーを感じるのは、私が無意識的に「社会との繋がり」や「同じ価値観」を求めているからだろうか。
余分な情報が削ぎ落とされたモノクロの世界は、ドライな雰囲気を漂わせつつも決して冷徹ではない。Strangeゆえのよそよそしさと仄かな孤独が入り混じる、静かな眼差しがそこにある。
私が見た風景と誰のものでもない記憶
本展はひんやりとした静かな秋の朝に眺めたい、静謐な素晴らしい作品群であった。まるで誰かの(もしくは誰のものでもない)打ち捨てられた記憶の欠片をそっと拾い上げたような気持ちだ。
よい展示でした。会期は11月8日(水)まで、ぜひ。