【本当に損?】誰もやりたがらない役割➡学びの宝庫という変換
わたしはタイプ的に率先して何かの役を引き受けたり、自らリーダーシップをとるような性格ではない。
とはいえ、人生の中で順番にまわってきたり、突如として降りかかったりと一般的に損な役回りを引き受けざるを得ない場面は多々あるのだ。
仕事であれば、それは報酬の一部であるし、そもそも嫌な役回りだろうと仕事である以上引き受けるのは自然なことなのだが、仕事以外のそうした役割りはマイナスな要素しかないのだろうか?
冒頭にも書いたがわたしは積極的に責任ある立場に立候補するタイプではない。その立場が人もうらやむポジションであろうが、権力を付与するものであろうが、本心では興味がない。
子供のころからいわゆるスクールカーストでいえば1軍や2軍のわりと目立つ集団に属していたが、そこでもリーダー的なタイプではなかったし、どちらかといえば集団の中で存在感をひそめる方であった。
話は変わるが、現在所属する業界団体のとあるエリアで問題が起こっている。その問題の大枠は高齢化による退会者の増加と、若手の入会者の減少による団体の存続というものだが、わたしは俯瞰した立場から一点、問題に対してホンネの意見を述べたことから、問題を解決する当事者になってしまった。
そのこと自体は致し方ないこととあきらめているが、団体での年齢層の幅や個人間での意見の違いに、大人数のグループをまとめるむずかしさに直面している。
この記事はそんな立場に立ってしまったがゆえのグチではない。
大変なことには変わりないのだが、自分の中で『火中の栗を拾う』という現状を『学びの宝庫』という変換で取り組んだとき、やはり自身の成長の糧になりそうなできごととして見えてくるのだ。
「やりたくない」、「めんどくせえ」と一蹴してしまえば簡単なことだし、断る選択肢だってあったはずだが、一旦覚悟を決めて受け入れてみると、今までは見えなかった側面が見えてくる。
これはわたしのようなケースでなくとも、例えば飲み会の幹事ひとつとっても、引き受けてみると大変なことや面倒なこともあるだろうが、学べることは多い。
わたしは若い頃、わりと幹事を引き受けることも多く、それは「飲み会」という小さなプロジェクトを遂行することによって、コミュニケーション能力や計画性、場の選び方のセンスなどを磨けるのを知ったからだ。
それは後々仕事にも役立っているし、ものごとの構造を知るうえでいい経験になっていると今では思う。今回の役割りも遂行できた際には得られる経験値もあると感じている。
誰だって損な役回りには及び腰になる。引き受けなければ何も変わらないが、引き受けたあとには確実に自分自身のアプデが期待できるとあれば、少しポジティブな気分にはならないだろうか?