【実力とは?】透けて見える「戦闘力」が欲しいのだ
「隣の芝生は青く見える」
往々にして、自分より豊かな生活や恵まれている環境にいる人を羨ましく思う気持ちは理解できる。
だが、一般的に人から羨望のまなざしの対象となる属性の裏側を知ると、その属性のすべてが、羨ましい成果を実力で獲得したわけではないということがわかる。
では、その成果が棚から牡丹餅的な幸運や、家柄などの譲り受けたものであっても自身で満足できるだろうか?
わたしはそうではない。明確に実力が何よりも欲しいと考えているし、宝くじが当たったとしても(当たったことはないが)心底喜べないのは、自身の努力によるものではないからだ。
わたしのまわりはちょっとしたお金持ちが多い。年収や保有資産のレベルでいえば富裕層はゴロゴロ、超富裕層はチラホラである。皆豊な暮らしを謳歌しているように見えるし、内情は厳しいひともいるだろうが、わたしのように少ない報酬であくせく働いている人はほとんどいないと思うのだ。
ただ、わたしが負け惜しみではなく、そのような属性にどんな方法を使ってでも食い込みたいと渇望しているかと問われれば、それはNOである。
そういった属性の裏側を知ると、本物の実力者とそうではない人とに分かれているし、実力者からすると、同じ様な環境にはいるが誰が本物で、だれがそうではないかは判別がついてしまうようなのだ。
それはドラゴンボールでいうところのスカウターのようなもので、自身で苦労して昇りつめた実力者からは表面的なものを見透かしてその人の実力、つまり「戦闘力」がわかってしまうらしい。
同じ環境で話をしていても、内心「一緒にするな」と思っているそうで、その同じ属性のどこを指しはかるかといえば、どのような道のりで成果を獲得し、今のような環境に身を置いたかどうか。
本物から見れば同じ富裕層でも、中身や意味合いが全然違うということで、わたしはやはりお金が欲しい、というよりこの「戦闘力」を身に着けたいという欲がある。
であるからして、たまにご一緒する方の乗っている車がどうとか、どんな家に住んでいるとか、という生活にはあまり興味がない。それよりもどうやってそこに辿り着いたか、というプロセスの方が気になるのだ。
同じ24時間365日という条件にもかかわらず、天と地ほどの差がつく理由が何か知りたいと常に思っている。孫悟空ではないが、どこでどんな修業を積めば強くなれるのか、年甲斐もなく考えてしまうのは精神が幼稚だからなのだろうか?
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