「どこまで深く考えるか」に正解はない
「考える」という行為には個人差がある。性格が影響していることもあれば習慣がない、ということもある、という話
昨日の投稿で「何を目指すか」というテーマで記事を書いたが、零細企業においてそれはそれぞれであるとした。
社会に価値を提供できていればその先はどこに目的や目標を定めるかは自由だと思う。そして、最近私自身のプロジェクトとして数人の零細企業経営者にヒアリングを行っているのだが、そこで耳にするそれぞれの意識はある意味で私の想像を超えるものであった。
4人目のヒアリング対象者の方から話を聞き終わったあと感じたことは「特に皆、危機感を感じていない」ということだった。
それぞれの事業が順調ということもあるのだろうが、そもそもその先のことや今のボトルネックにかんして、深く考えたことがないそうだ。
普段から不都合なことや、もう少しこうだったらというちょっとした理想もあるにはあるが、その場で思いついてはすぐに忘れてしまうらしい。
忘れる程度のことなので深刻な死活問題ではないということなのだろうが、私の感覚からいえば、事業の傾きはまさにサイレントキラーとして気がつかないほころびから発生し、急激に顕在化する。
気が付いた時点からの処置はむずかしく、病気同様、未然に予防するということが望ましいかと思うが、痛みを感じていない時点で意識を向ける零細企業経営者は稀である。
そのような調子であるからして、情報収集などの類はほとんどしていないそうだ。深く考える習慣がないのだからその考える素材になる情報を自ら集めることはしない。最近ではYoutubeさえ長いと感じるそうで欲しい結論までの数分が我慢できず閲覧から遠ざかっているとの意見もみられた。
そしてもうひとつ興味深かったのがある経営者の方が発した持論「とりあえず売上げがあればほとんどのことは問題ないでしょ」
これはある意味では正論かと思っている。細かい利益率やら生産性やらを抜きにして、とりあえず経営に必要な資源を確保するだけの売上げがあれば大抵のことは解決する。
その会社の資金繰りや財務状況にもよるが、まずは原資になる売上げを上げることは必須になる。
よって、この経営者の方がおっしゃったことはあながち間違いではないのだ。この意見からも分かるように世の中の多くの零細企業経営者は毎月の売上げ危険水域でなければ、あとの細かい問題は「なんくるないさ」なのである。
だが、私のまわりではそういった大きな器を持った経営者の方が、あっという間に苦境に立たされて散ってしまっているのも事実だ。どこまでも深く考えよ!とまでは言わないが、普段から考えるクセをもつことはやはり大事なのではないかと痛感している。
考えるには言葉が必要で、その言葉は情報に乗ってやってくる。であるからして、情報を目にする習慣も意識していただきたいところ。
それぞれが素晴らしい企業価値を持っている会社だけに、その価値の持続や向上に少し意識を及ばせることでより高付加価値な存在になりうると思うのだ。
売上げは大事。その売上げを永続的に確保するために「考える」習慣は定着させる必要があるとヒアリングから学んだ次第。
深く考える必要は必ずしもない。表面にあらわれた問いに真摯に向き合うだけで何かが変わる