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「Chim↑Pom展:ハッピースプリング」から考える問いかけとしての現代アート

※ 教員による1回完結型 連載対談記事「革命エデュケーション ex04」(Web版 特別編)をお届けします。

アンダーグラウンドから「道」に出る展示構成

細井 こんにちは! 「革エデュ」特別編はWeb限定のコンテンツなのですが、これが早いもので第4弾になりました。昨年の春は佐藤可士和展について掘り下げた話をしたのですが、今年は、二月から五月まで森美術館で開催されていた「Chim↑Pom展:ハッピースプリング」から話を始めたいと思います。鵜川さんは、実際、行ってみてどうでした?

鵜川 Chim↑Pomの作品は、過去にもいろんな展覧会やアートフェスで見てきましたが、今回のような単独での展示を見るのは初めてでした。一つひとつの作品はもちろんですが、今回は特に展示空間の作り方が面白かったですね。彼らの作品は文脈が重要なので、展示空間そのものをインスタレーションとして機能させるのは、ある意味必然と言えるかもしれません。

細井 ざっくり言うと、展示空間は3層構造ということですかね。アンダーグラウンドな層、そこから上がった層、その先にある第3層という感じで。僕はどれも面白かったです。

鵜川 それで言うと、最初の2層がほんとすごかったです。森美術館の特徴の一つに天井の高さがあるわけですが、それを上下二層に分けるというのは、いいアイディアだと思いました。
 具体的には、展示室内に、単管を組んで作った足場で二階部分を作り、その二階部分はと言うと、アスファルトで舗装してあります。こうして、美術館内部に擬似的なパブリックスペースを創り上げてしまった。本来、美術館というのは外部から切り離された空間である一方、パブリックアートは一般に美術館の外の道路や公園に設置されるわけですが(六本木ヒルズだと、ルイーズ・ブルジョワによる巨大なクモのオブジェが有名ですね)、この構造が覆されている。
 これは、過去にChim↑Pomが高円寺や台湾でやってきた「道」というプロジェクトの延長線上にあるものなので、この空間自体が作品の一つということになります。この「道」については、今回の展覧会でも、過去の展示風景やその声明が展示されていました。

細井 台湾で行われた「アジア・アート・ビエンナーレ2017」にChim↑Pomが参加したとき、やはり「道」が作られたんですが、その際にデモや飲食の許可を受けた書類も展示されていましたね。
 1層と2層を見た僕の単純な感想は「学園祭臭がスゴイ!」だったんですが(笑)、現代アートをそれなりに見慣れているはずの自分が美術館のホワイトキューブ的な制度性にいつの間にか馴致されていることに気づかされましたね。それだけでもこの展示を観た意味はあったと思います。

鵜川 「学園祭」というのは、言い得て妙ですね。
 僕が初めてChim↑Pom作品を見たのは《スーパーラット》だったと記憶しています。どこかのトリエンナーレだったかな。周りの作品がわりとおとなしかった(というか、まあ普通の現代アートです)中で、黄色く塗られたあのネズミと、路地裏でのネズミの捕り物映像が展示されていて、その異様なまでのテンションの高さにギョッとしました。美術館的な秩序を破壊するというか、路上のテンションをそのまま美術館にインストールするというか。(ちなみに、今回は、著作権者に対する森ビル側の配慮から、黄色いバージョンの《スーパーラット》にNGが出され、最終的に金色バージョンを制作したという経緯が、『美術手帖2022年4月号』(pp.31-32)に書かれていました。)
 学園祭も、本質的にはそういうものです。学校という日常的な秩序を、祝祭によって上書きして破壊する、みたいな。とはいえ、なかなかそこまでパワフルな展示やイベントは出てこないんですけどね。

細井 Chim↑Pomの初期代表作とされている《ERIGERO》《狐狗狸刺青》というのがあるんですけど、これも異常なテンションの高さと日常性の打破という「祝祭性」がありますね。前者はメンバーのエリイがピンク色の液体を一気飲みしてゲロを吐く映像、後者はこっくりさんという遊び(降霊術?)に従ってメンバーにタトゥーを入れていくというものです。どちらもコンプライアンス的にウチの学園祭ではムリだなと思いました。まあ、他でも絶対にダメでしょうけど(笑)。特にコロナ禍以降の社会は盛り上がるというか、人前ではっちゃける態度自体にすごく厳しい視線があるので、Chim↑Pomの初期作品はネガティヴに捉えられるんだろうなあ、と思って見ていました。ただ、それで見えてきたのは、社会に対する問いかけというのが彼らの活動のひとつの目的なんじゃないかということです。

炎上騒ぎと「動的な場づくり」

鵜川 アートとコンプライアンスの問題は、それだけで数回分話せてしまえるテーマですね。最近で言えば、「あいちトリエンナーレ2019」の中で開かれた企画展「表現の不自由展・その後」をめぐる騒動が記憶に新しいです。Chim↑Pomの作品では《気合い100連発》が展示され、これも炎上騒ぎとなりました。
 僕自身が「あいちトリエンナーレ2019」に行ったのは、「表現の不自由展・その後」が閉鎖されていた期間だったので、この時は《気合い100連発》を見ていないのですが、それより前に、何かの展覧会で鑑賞していました(おそらく初出展ぐらいのタイミングだと思うのですが、何の展覧会だったか、調べても分かりませんでした)。
 特に難しいと思ったのは、動画という形式ですね。全体像を(表層的には)すぐに捉えることのできる絵や写真、造形とは違って、動画は部分しか見てもらえないことが大半です(ちなみに《気合い100連発》は10分半あります)。
 全体を見てもらえないのは文章も同じなんですが、文章の場合は、そもそも部分も見てもらえない(苦笑)。その点、動画は作品内部の文脈からも、社会的な文脈からも切り離されて鑑賞される可能性が高いので、難しいな、と思います。

細井 今、アートの形式についての話が出ましたが、展覧会で動画を最初から最後まで観るというのはなかなか難しいですよね。そもそも、1時間くらいある作品が上映されてたりします(笑)。当然、部分だけ観るということになるんですけど、今の時代はニュースやSNSで動画や音声の一部が切り取られるのが当たり前の時代です。情報に関しても同様で、ニュース映像や記事の一部によってアート作品の好悪が判断されるんだとしたら、ちょっともったいない気がします。
 「表現の不自由展・その後」については、以前の「革エデュ」で触れてますね。

 この企画展では、慰安婦像や、天皇の肖像を燃やすという映像(やはりこれも動画ですね)が強い批判を受け、展示の中止へとつながりました。炎上したといえば、《ヒロシマの空をピカッとさせる》も相当際どいですよね。特に戦争や原爆はデリケートな要素を含んでいるので、批判の声が上がったのも納得です。
 このコメントを書くために慰安婦像について調べていたら、面白い論考が見つかりました。

 慰安婦像について、僕はこれまで韓国側が旧日本を糾弾するために作ったものだというくらいの理解しかなかったんですけど、韓国の民間団体の主導で数多く設置されているものなんですね。また、韓国におけるその歴史的文脈(韓国は1980年代後半まで軍事政権でした)や、それが公共空間に置かれていることの意味、さらにはアートと政治性などについても論じられていて、これだけ複雑な背景があるものなんだとはっとさせられました。アート作品ってこういう回路を開いてくれるチャンスを作ってくれるものだと思うんですけど、最初に書いたような受け止められ方をすることが多いんだろうな。

バンクシーとChim↑Pomの違いとは?

鵜川 Chim↑Pomが炎上することの一つの要因に、個々の作品のクオリティの低さがあると思います。これは、作品をおとしめようとして言っているわけではないんです。例えばバンクシーと比較すると、その意味が伝わりやすいかな。
 バンクシーはグラフィティアーティスト、ストリートアーティストとして、今やその名を知らない人がいないほど有名になってしまいました。東京でも、昨年から今年にかけて、寺田倉庫とWITH HARAJUKUで展覧会が開催され、大盛況でした。
 作品は、社会批評的なものがほとんどで、相当に挑発的です。制作に際しても、無断侵入、無許可は当然のこと、紛争地域にも作品を残しています。そういう意味で、メンタリティとしてはChim↑Pomと通底するものがある(というか、現代アートをやっている人たちの多くに、そういう面があると思いますが)。
 ところがバンクシーの作品は、とにかくフォトジェニックです。それ故に世界にイメージが拡散し、強い批評性やメッセージ性を獲得するに至ったわけですが、同時に消費対象として資本の論理の中に取り込まれてしまっている(もちろん、バンクシーはそれに抵抗しようとしているわけですが)。
 僕自身、去年の寺田倉庫での展示に行った時に、グッズが飛ぶように売れている様子を見て、複雑な気分になりました。巨大資本に抗する作品、消費社会を揶揄する作品を鑑賞した後、同じテンションでコラボグッズを買えてしまう現実と、そういった展示空間を演出していてもグッズ販売からは解放されない主催者側の現実に、まあそうだろうと思いつつも、釈然としないものを感じました。
 その点、Chim↑Pomは容赦ない。確かにTシャツなどのグッズもありますが、それでは終わらない。売店には千円のガチャガチャがあって、これを回すと、クシャクシャになった千円札が出てくる(説明が書いてあったのは美術館側の都合かもしれませんが)。あとは、グッズの陳列棚になっている「Chim↑Pomカー」に値段がついていたり、余った廃材が売られていたり(でしたよね? 記憶が曖昧……)。少なくとも、売店にもChim↑Pomらしい遊び心と批評性が同居していました。
 個々の作品がフォトジェニックでない、きれいでない、目に優しくない、不誠実に見える、というのは、Chim↑Pomが敢えて取っている戦略で(事実、《スーパーラット》の作品としてのクオリティは高いです)、その辺りが例えば迷惑系ユーチューバーとの根本的な違いかと思います。

細井 僕は展覧会グッズが好きでけっこう買っちゃうんですけど(資本の論理に回収されています・笑)、Chim↑Pomの態度は今挙がったバンクシー展とは逆でしたね。バンクシー展や昨年森アーツセンターギャラリーでやっていたKAWS展は、グッズありきみたいな感じのところがありました。それに対して、Chim↑Pomはあまりやる気がないというか、グッズという形でのサーヴィスは無かったですね。僕はとりあえず図録兼レコードを買ったんですけど、そこに入っている音源も別に踊れるダンス・トラックとかではない。それこそスーパーラットとかレンガとか、展開次第ではグッズとしてのポテンシャルを持っているものもあると思うんですけど、それはやらないですよね。要はそのへんが鵜川さんの指摘したYouTuberとの違い=戦略的な側面だと思います。2層目で展示されている作品も、単体として観るとそれこそ学園祭レヴェルのものも多くて、「試されてるな」と思いました(笑)。

鵜川 二層目の「道」については、僕自身もちょっと疑問が残っていました。ただ、GW中に文芸部の生徒を連れて、二回目の鑑賞に行った時に、色々と納得しました。あそこは、本当にストリートなんだと。というのも、一回目には見られなかったパフォーマンスを見られたからなんですけど。
 見たのは「ファントム」というスタチューのパフォーマンスを行う方と、「しろみときみ」という自分たちをマリオネットに模したパフォーマンスを行う二人組、あと「ゼロコ」というパントマイムを行う二人組です。
 ファントムさんとしろみときみさんは、パフォーマンスのクオリティは高かったのですが、あまりにもアーティスティックだったので、ある意味、美術館という場にふさわしすぎてしまった、というのが正直なところ。逆に、ゼロコさんのパフォーマンスは、ホント面白くって、それが美術館の中だということを忘れていました。
 それでふと思ったのが、Chim↑Pomがやりたいのは、自己完結せずに、絶えず周囲を巻き込む動的な場づくりなのかな、と。その最たるものが「道」であり、もう一つ、《ノン・バーナブル》かな、と。《ノン・バーナブル》は、広島市から借り受けた大量の折り鶴を、四角い折り紙へと戻していくエリイの映像が流れ、その前で鑑賞者がその開かれた折り紙を再び鶴へと折り直すという、鑑賞者参加型の作品です。新たな折り鶴を増やすことなく、それでも平和の祈りは届けるという、非常に批評性の高いアートでした。

細井 《ノン・バーナブル》、僕もひとつ折ってきました。紙の裏側にあった、以前折ったであろう小学生の鉛筆書きのメッセージが印象的でしたね。

オノ・ヨーコと60年代前衛芸術の影をChim↑Pomに見る

細井 今、「動的な場づくり」という話が出ましたけど、エリイが結婚したときに夜通しパーティーをやって、その後新宿の街中をパレードしたんですよね。それは《LOVE IS OVER》と名づけられていますが、パフォーミング・アート的な作品であることと同時に、そこに込められた「ラヴ・アンド・ピース」というメッセージに懐かしの60年代末〜70年代初頭を見た気がしました。

 というのは、Chim↑Pomの展覧会を観て僕はオノ・ヨーコのことをけっこう想起していたんです。例えばパフォーミング・アートということで言うと、ジョン・レノンとの有名な《ベッド・イン》とか。オノ・ヨーコは若い世代だとあまり知らない人も多いかもしれませんが、前衛芸術家/音楽家です。ビートルズ解散後はジョン・レノンの公私にわたるパートナーとして活動をしていて、彼の代表曲「Imagine」にも大いにインスピレーションを与えたと言われていますね。《LOVE IS OVER》もかつてジョンとヨーコが掲げたヴェトナム反戦のメッセージ「WAR IS OVER」を踏まえていると思います。
 Chim↑Pomの手法って、いわゆる前衛芸術の伝統に即している部分がある。そのあたりはもっと語られていいことのような気がするんですよね。

鵜川 確かに、前衛芸術の流れは感じますね。オノ・ヨーコの作品は、そんなに多く見たことはないのですが、特に記憶に残っているのは《Cut Piece》です。これは、舞台上に座っているオノ・ヨーコの服を、観客が一人ひとりハサミで切っていく、というパフォーマンス。もちろん、映像でしか見たことはありませんが、異様な緊張感、緊迫感があって、しばらくモニターの前を離れられませんでした。

 って言いながら、今ふと思ったのは、パフォーマンスを記録したものと、パフォーマンスを映像としてパッケージしたものの違い、でしょうか。《Cut Piece》の映像から感じた緊張感って、それが現実に行われていた/いる、っていう時間を超える生々しさにあったんじゃないかな、と。逆に、Chim↑Pomの映像作品は、カメラワークや編集が工夫されているので、普通に鑑賞できるものになっている。
 さっき、Chim↑Pomの作品のポイントとしてクオリティの低さを挙げましたが、そういう意味では、やっぱりクオリティは計算ずくでコントロールされているんだな、と思いますね。一見、生々しく見える《SUPER RAT》のネズミ捕獲映像も、カット割りがかなり細かい。パフォーマンスのストレートな記録ではなく、映像作品であるがゆえに、これはまた別の消費に晒される可能性があるわけですが。

細井 映像の持つ意味や価値が昔と今とでは全然違うことも指摘しておきたいですね。つまり、昔は機材やフィルムが高価だったので「ここぞ!」というときにしか撮影できなかった。そのテンションが記録として残されているのが《Cut Piece》なんでしょうし、逆に《スーパーラット》は撮影・編集が当たり前になった時代の作品なんだと感じます。2010年代以降はYouTubeやTikTokなど動画が日常レヴェルで流通している時代なので、昔の映像作品を観ているとカメラワークも含め、「ただ撮ってるだけ」という感じですごく単調に思えてしまいますよね。
 で、オノ・ヨーコに話を戻しますが、「Don't Follow the Wind」という、東日本大震災時の原発事故に伴う帰還困難区域内で行われている展覧会があります。要はその場に行かないと観られないもので、今回の展覧会では何もない美術館の一室を「空白」として展示しているんですが、この手法はすごくオノ・ヨーコ的だと思いました。彼女の作品は、空白や不在によってあるものの存在を想像させるという手法がよく用いられるんですが、この作品もそんな感じですよね。ある意味で禅的と言えるかもしれません。

鵜川 「Don’t Follow the Wind」が開始されたのは2015年3月11日です。会場となっているのは、双葉町の住民から借りた四件の家屋。民家や古い建物を展示空間として利用しているのは、例えば東京だと銭湯を改築して作られたSCAI THE BATHHOUSEがありますね。あるいは今年が開催年に当たっている「越後妻有 大地の芸術祭 2022」や「瀬戸内国際芸術祭2022」といった地方の国際芸術祭を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。先ほど細井さんからも言及のあった美術館的なホワイトキューブとは対極にある展示空間がそこにはあります。
 特に「Don’t Follow the Wind」については「人がいなくなった現地では、自然が侵食し、展示物はつねに変化にさらされている。野生のイノシシが家屋の扉を食い破って作品を破壊したこともあった」(『美術手帖2022年4月号』p.53)そうです。展示会場そのものがインスタレーションであり、今現在も刻一刻と変化し続けている。
(そういう点で言うと、同展に参加している宮永愛子は、時間が作品を侵食していくような作品を多数発表している作家で、彼女の作品が展示期間中にどのような変化を辿っているのかは、とても興味があります。)
 そこで興味深いのが、森美術館に設けられた「Don't Follow the Wind」の空間が、敢えてホワイトキューブとして提示されていたことです。個人的には、あそこは美術館じゃなくて、どこでもない場所、というか、時間の経過から取り残された場所なのかな、と感じました。被災地は変化し続ける。しかし、我々の時間は止まったまま。それこそ、ドラゴンボールの「精神と時の部屋」のように、外で起きている変化から切り離されて、取り残される場としての森美術館/東京、というか。

細井 「どこでもない場所」という印象は僕も持ちました。森美術館は六本木ヒルズの53階にあるんですが、窓外に東京の街が広がっている風景は、そのときの僕には固有性よりも抽象性を強く感じさせました。おそらくこの空の向こうには「フクシマ」があるんだろうけど、それは想像されるだけなんですよね。また、この空白の空間は、我々の東日本大震災に対する態度=「忘却」を象徴しているようにも感じましたね。3.11後、風化という言葉で現地と東京の差が語られましたが、3.11から10年以上が経過して、家族や友人がいない限り、東京に住んでいる僕たちが震災のことを日常的に考えることはまずない。そういう空白や忘却というのをあの空間は示していたように思います。展示の順序が先ほど触れた1層、2層を経由していただけに、なおさらそれを強く感じました。

何のためにアートを作るのか?

細井 今回の展覧会では《ジ・アザ―・サイド(向こう側)》というアメリカとメキシコの国境をサブジェクトにした作品もありましたが、Chim↑Pomはそういうシリアスな問題意識も持ち合わせている。ただ、世間のイメージと本人たちの態度によって誤解されている部分があるんでしょうけど(苦笑)。あとは彼らの師匠と言える現代芸術家、会田誠さんの存在も大きいですね。この人も過去にいろいろと騒動を巻き起こしてきた人です(笑)。

鵜川 そうですね。そもそも、Chim↑Pomの始まりは会田誠の家にさかのぼるわけですが。
 会田誠は僕自身、とーっても大好きな作家です。森美術館での個展「会田誠展:天才でごめんなさい」(2012~13年)はもう十年前になりますが、この時にも、一部の作品が「性差別」に当たるとして、市民団体から抗議を受けています。最近では、京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)の公開講座での訴えが記憶に新しいでしょうか。
 会田誠の作品は、その劇薬度合いがChim↑Pomの比じゃないので、ここでは具体的な作品に言及するのは控えますが(リンクも貼れないし:苦笑)、精緻に描かれた最悪の作品も、アイディア一発で造られた最悪の作品も、どれもこれも、我々が見たくないものを最悪の状態で形にしていて、最高です!

細井 ということで、実際の作品が気になるという人はいろいろ調べてみてください(笑)。
 語弊がある言い方を敢えてすると、この人って世間で思われる「前衛芸術」のイメージをわりと典型的に体現してますよね。露悪的な感じの作品で、当然賛否(否が多い)を巻き起こすという。
 で、「こういう人って何を考えて作品を作ってるんだろう?」って思う人も多いと思うんですよ。「悪ふざけなんじゃない?」みたいな。
 でも、アートの役割ってそういうものだとも思うんですよね。世の中に一石を投じるというか、既成の社会常識やモラルに対して異議申し立てをしたりそこからの抜け道を探すという。文学だってもともと健全なものでは全くなかった。今でこそ学校で教えるものになってますけど、谷崎潤一郎や太宰治などにもかなりアンモラルな作品があるし、夢野久作『ドグラ・マグラ』なんて作品自体がかなりどうかしてますよね(笑)。

 やっぱり、ポリティカル・コレクトネスに代表されるように社会が健全化=ある枠組みの中にあるものしか許容しなくなってきてますよね。それは良い面ももちろんあると思うんですが、アートをやる人にとっては大変なんだろうなと感じてしまいます。

鵜川 「悪ふざけ」で言えば、真っ先に思い浮かぶのマルセル・デュシャンの《泉》ですね。1917年の「ニューヨーク・アンデパンダン」展において、手数料さえ払えば誰でも出品することができた展覧会だったにもかかわらず、委員会から展示拒否されたんですよね。美術の概念や制度性を問うた歴史的な事件として語られることも多いですね。
 知らない人もいると思うので説明しておくと、これは男性用の小便器にサインをしてタイトルを付けただけの作品になります。大量生産される工業製品を作品として提示したのは、唯一性を旨とする伝統的な美術に対する痛烈なカウンターであり、同時に、サインをしてタイトルを与えることで作品としての固有性を担保してしまう(しかも、デュシャン自身のものではない偽名をわざわざ書いているわけです)。
 という、美術史的な話はあるにせよ、なんで便器なのか、っていう話ですよね。同じ条件を満たすものは他にもあっただろうに、あえて男性用小便器なんですよ。後付けで色々語ることは可能だと思いますが、最初にデュシャンがこれを選択した時に、悪意というか悪戯心というか、そういったテンションの高さはあった気がするんですよね。

細井 そしてそこに《泉》というタイトルをつけるセンスが僕は大好きです(笑)。新古典派の巨匠、アングルにも同名の邦題の作品があり、それとの関連性を指摘する声もありますね(ただし原タイトルはそれぞれ《Fontaine》《La Source》と異なる)。まあ、ノリ先行でやってるときって下品な方向に走りがちですよね。数年前に紫綬褒章を受賞した某有名アーティストも、その昔「クリといつまでも」という謎の曲をリリースしていました(笑)。
 「悪ふざけ」について、僕からもひとネタ話すと、70年代パンク・ロックを代表するアーティスト、セックス・ピストルズの曲に「God Save The Queen」というのがあります。

 この英国国歌と同じタイトルの曲で、彼らはエリザベス女王やイギリスをこきおろしてるんですけど、これもパンク特有の世の中を斜に見る感じがありますよね。ちなみにヴォーカルのジョン・ライドンはナショナリストに刺されて大怪我を負ったという……。

鵜川 いかにもパンクなエピソードですが、もし同じことを今やれば、熱さよりもイタさの方が伝わってしまう気がします。こういう在り方や態度というのが、どんどん難しくなっている。

ゾーニング=分断することの危険性

鵜川 「誰も傷つけてはいけない」という価値観が過剰になり、市民レベルの監視が、SNSと炎上という方法を得て、社会の隅々にまで実装されつつあるのが、今の世の中かな、と感じています。そしてそれによって、文化や芸術、あるいは表現全般が、すごく困難な時代に入ろうとしている。
 そういえば、『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)に興味深いことが書かれていました。

 何かって言うと、作品のワクワクやドキドキがストレスになる人たちが一定数いるという話です。そういう人たちは、先にネタバレサイトで殺される人や犯人を確認した上で、映画やドラマを鑑賞するそうです。それ自体の可否はまた別の機会にお話しできればと思いますが、ネタバレ情報によって「傷つきそうな人」をあらかじめ鑑賞者から排除することができて、そのことが表現の自由を守ることにつながるのであれば、それもまた一つの方法なのかな、と。
 なんて話を文芸部のOBとしていたら、「昔の作品では、そもそも章の最初に結末までのあらすじが書かれてましたよ」と言われました。例えばスイフトの『ガリバー旅行記』を確認すると、確かに結末までばっちり書いてあるんですよね。

 なので、物語の展開や結末を隠してインパクトを強めるというのは、歴史的には新しいやりかたなのかもな、と思いました。そもそも、落語や歌舞伎をはじめとした伝統的な口承文芸や舞台表現の類は、ストーリーを知った上で鑑賞するものでしたし。

細井 探偵小説(推理小説)というジャンルは18世紀半ばに生まれたとされています。近代市民社会が当たり前のものとなり、逆に言うと隣の住民の素性がよくわからなくなった中で起きる犯罪の行方に人々が関心を寄せるようになったという背景があるようです(当然、新聞などマスメディアの発達も絡んでいます)。物語的なフォーマットで言うと、ネタバレ禁止的なものはわりと近年の産物で、今出た落語の話もそうですが、子供が結末のわかっている物語を繰り返し観たり読みたがったりするということに表れているように、人というのはそもそも語りやそれによって導かれる展開そのものに魅せられているのかもしれませんね。

鵜川 そうですね。今、話題に出た「傷つきそうな人」を排除するということで言うと、森美術館で開催された「会田誠展:天才でごめんなさい」では、刺激の強い作品を通称「18禁部屋」で展示するというゾーニングが行われていました。

細井 それって、要はR-15とかの映画のレイティングに当たるものですよね。僕自身も『映画を早送りで観る人たち』を読んで、著者同様にそういう人たちに違和感を感じてしまったりもするのですが、それも一つの選択ということなのかもしれないと思う部分もありました。ただ、鵜川さん同様に作り手の側からするとどうなの? という気持ちはやっぱり拭えません。
 話を戻すと、現代アートが持っている「問いかけ」の機能に関わる話なのかなと思うんですね。現代アートを作っている人は、多分答えをわかってない。それ以前に衝動や感覚によって作品を生み出していると思うんですよ。例えば僕ら教員だったら、授業の中での発言や表現に対して「ここまではOK」というラインを引いて、そこを越えようとしたら「やめとこう」という回路が働くと思うんですが(少なくとも、僕はそうだと思います)、いわゆる「芸術家」はそうではない。これは彼らと僕たちの差異を強調したいわけではなく、そもそもの判断基準が違うんですよ。
 なので、ゾーニング発想的(しかもそれがテクノロジーによって行われようとしている)時代状況の中で現代アートがそもそも前提としていた「常識を揺さぶるような発想」が失われたり去勢されたりするような出来事や状況に対しては、違和を唱えていく必要があるように思います。

鵜川 そうですね。今のような形でゾーニングが正当化され、この傾向が加速化していけば、行き着く先は想像力の欠如、そしてさらなる分断です。ゾーンを囲む壁に梯子を掛けて向こう側に渡ってみる、あるいは、壁に穴をあけて向こうを覗き見る――同調と分断にどう抗うのかというのは、学校や教育の重要な役割だと思います。
 そういう意味でも、美術館や展覧会という場の持つ多様性や越境性、異質なものへと開かれていることの価値は、これまでになく高まっていると感じます。ということで、皆さん、もっと美術館に行きましょう!

細井 時期的にもちょうど夏休みを迎えますしね。
 最初の話に戻りますが、Chim↑Pom展の空間構成は工事現場や学園祭を思わせるものがありました。会場に足を踏み入れたときに、ちょっと懐かしいような、学生時代に体験したワクワクするような感覚が一瞬甦ったんですね。アンダーグラウンドからストリートへ、という構成も今の鵜川さんの話とちょっとつながってきます。そういう意味では、美術展だけにとどまらずさまざまな空間や場所に足を運んで、想像力や五感を使って体験するということの大切さについても言及して、今回の対談の締めくくりとしたいと思います。

(ほそい まさゆき・国語科)
(うかわ りゅうじ・国語科/小説家)

Photo by Tom Barrett on Unsplash

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