暗渠道への誘い 蛇崩川編② ~八百年前の馬から~
蛇崩川編、前回は目黒区の区間を遡上して、世田谷区との境界のあたりまで紹介した。
今回は世田谷区ゾーンに突入して、ずんずん遡上していこう。
川跡に残る、馬のひづめの跡
現在地は、世田谷区下馬1丁目と同5丁目の境界。
この「下馬(しもうま)」という地名は、初めて知ったとき、少々不思議な地名だなと感じた。
少し西に行くと「上馬(かみうま)」もある。
それだけではなく、上馬の西隣には「駒沢」もあるし、下馬地区には駒留中学校、駒繋小学校、駒繋神社がある。
やたらと馬に関する地名が多いのだが、その多くは、ある有名な歴史上の人物の伝説にルーツがあるという。
私は日本史にまったく詳しくないため、こういう話に及ぶのは珍しいのだが、せっかくなのでちょっと寄り道してみよう。
蛇崩川緑道からほんの30mほど東にそれた場所に、この「葦毛塚(あしげづか)」がある。
世田谷区の教育委員会が立てた解説板によると、
とのことだ。唐突に、ビッグネームが登場した。
ここに出てくる、馬が落ちた「沢」とは、まぎれもなく蛇崩川のことだ。
暗渠化された今となっては、馬が落ちて死ぬような場所がここにあったとは想像しがたい。
ただ、かなり深い谷があったという記述は他にもある。目黒区の区間、あの「在りし日の蛇崩川そのもの」が遊具に描かれた児童公園に、こんな説明板があった。
この説明板には、「かつてはたいへんな暴れ川で谷も深く、古老の話によると、烏森神社あたりでは千尋の谷のようだった」との記述がある。さすがに「千尋の谷」は話を盛りすぎている気もするが、とにかく、馬が落ちて死ぬくらいの谷ではあったことは窺える。
また「上馬」「下馬」の地名の由来については、蛇崩川沿いにこのあと現れる「駒繋神社」の境内に、濃密な解説板がある。
どう撮っても反射してしまい写真では読めないのだが、文章の一部を抜粋する。
やはり、ここでも源頼朝の伝説が出てきた。
「一面のぬかるみ」となっていたのは、蛇崩川の谷にあたる土地ゆえ、水が溜まりやすかったからではないか。
もっとも、二つ目に紹介した上馬・下馬の由来は、ちょっと怪しい。
世田谷区のWebサイトには、全く別の話が由来として書かれているのだ。
このページによれば、もともとこの地には「馬引沢」という地名があり、やがて「上馬引沢村」「中馬引沢村」「下馬引沢村」ができ、併合して「駒沢村」ができた後も大字として上馬引沢、下馬引沢の地名があった。それが省略された形で「上馬」「下馬」になったという。
いずれにしても、この「馬引沢」という地名も、先ほどの葦毛塚にあった頼朝の伝説にちなんでいる。頼朝が件の事故を戒めとして、「この沢は馬を引いて渡るべし」と申し渡した、というのだ。
この頼朝の馬に関する伝説は1189年ごろの出来事。
この当時から「蛇崩」の名前があったのかはわからない。
川の名前は、もしかしたら「馬引川」とかになっていた可能性もあったのではないか。
私は日本史に本当に疎いのだが、それでも、「日本人ならほぼ誰でも知っているレベルの歴史上の人物が、850年近くも前にここを通っていた」と思うと、ちょっとワクワクする。
頼朝公としては不本意だったのだろうが、期せずして川に関わる伝説だったり地名だったりを残していった。川を辿ってきた私が、いま、偶然それを拾っている。面白いではないか。
整備されすぎた暗渠道
さて、暗渠道の話に戻って、上流に向けて進んでいこう。
世田谷区に入って最初に出会う橋がこの「大下橋」なのだが……
あまりの素っ気なさに、世田谷区大丈夫なのか、やる気あるのかと、いきなり不安にさせられる。
しかし、前回も紹介した通り、世田谷区の区間はどちらかと言えば「きれいに整備・管理されている」のが特徴といってもいい。
前回紹介した、このきれいな案内板が、このあとたびたび登場する。
大下橋を過ぎて、砂利場橋からしばらく先、薄橋のあたりまでは、特にきれいに整備されている。道の様子は、だいたい次の写真のような感じだ。
別に悪く言うつもりはなくて、とても歩きやすいし、遊歩道としては申し分ない。緑も多くて、気持ちよく通っていける。
ただ、「暗渠道」としては、ちょっと物足りない。
綺麗に加工されすぎて、かつて川であった痕跡はとても薄くなってしまっている。時々現れる「橋跡を示すモニュメント」くらいだ。
それがなければ、川だったことに気づかない人も多そうな、そんな道である。
見どころがないとは言わないが、語るべきことは多くないので、この区間は少し省略気味に行こう。
基本はこの2タイプである。いずれも比較的最近、まとめて整備された印象。かつての橋の一部ではない。
「足毛橋」は、例の馬の伝説にちなんだ名前だろうか。
ただ、道中で一つだけ、まったく違う風情の橋が現れる。
駒繋神社の入り口にある「駒繋橋」。
暗渠に架かる/架かっていた橋は、ほとんどはその役割を終えていて、痕跡だけになっているケースも多い中、この橋だけは「現役」と言ってしまっていいのだろう。
神社の入口にある橋なので、意味合いは全く違う。”その世界”への入口、境界、といったところか。
この橋の先につながる駒繋神社の境内へ入っていくと、先に紹介した看板がある。頼朝公が馬を降り、境内の松に繋いで参拝したので「駒繋神社」とのことだ。
中目黒の合流点からここまでで2km弱くらい。となりには公園もあって、ちょっと休憩するには丁度いいスポットだ。
神社の先、薄橋あたりまでは小ぎれいな遊歩道なのだが、薄橋から一之橋までのエリアは、ちょっと道が狭くなる。
あー、いいね。
暗渠道らしくなってきたよ。
「玄関ではなく裏口を向ける家」に挟まれて、圧迫感を感じながら進もう。
先の案内図で見るとわかるが、このあたりの道は、川跡とは思えないくらい、びっくりするほど直線になっている。
蛇崩川は暗渠化される前の時点で、おそらく何度も河川改修を受けていて、真っすぐにされていたのだろう。
暴れ川に対する、人間側の抵抗の跡である。
一之橋を過ぎ、次の茶屋下橋から、いきなり超ディープな見た目となる。
急になんだか、「立ち入りお断り」みたいな雰囲気を出してくるのだが、それはこの先で道がいったん寸断されているためだ。
入っていくと、このような階段があって、
そして、国道246号線の側道へと出される。そこに横断歩道や信号などはないので、暗渠道をたどるためには若干の迂回をしなければならない。
国道を渡ると、世田谷郵便局の敷地の隣に、暗渠道の続きが見つかる。
引き続き進む。郵便局の隣は警察署である。
暗渠沿いにこれらの施設があるのは、偶然ではなさそうだ。
暗渠道の左右には、学校や公営団地のような、「公的な広い施設」があることが多い。
川沿いの土地は、田畑などとして利用しづらいこともあり、個人に所有されることなく残っていた場合も多いという。なので、その後の都市開発の際、公的な大きなものを建設する土地として使われた。学校や団地が暗渠サインとして機能するのはそのためだ。
郵便局や警察署は暗渠サインとは言い難いのだが、世田谷郵便局は集配も行っている大きな郵便局なので、ここに建設された理由はそういうことなのではと窺わせる。
不気味な公園の秘密
さて、この先に丸山橋という橋の跡があり、そのとなりには「世田谷丸山公園」がある。公園もわかりやすい暗渠サインの1つだ。
なのだが。
ふむ。
どうも公園の様子がおかしいぞ。
子供たちが遊ぶはずの空間の一部が、異様に高い壁で区切られて、めっちゃ工事しとる。
ここで、この公園の、Google Mapの航空写真をご覧入れましょう。
そこには巨大な穴が。
なんだか、とんでもない工事をしている公園に来てしまったらしい。
工事の概要は看板に書かれていたので、まず看板のご紹介を。
蛇崩川緑道の地下には、下水道幹線としての蛇崩川があるので、やはりここで行われているのは下水道関連の工事だ。
しかし、工事期間が長すぎることからもわかる通り、普段そこらへんで見かける下水道工事とはレベルが違う。「浸水から街を守る」とも書かれている。
すぐそばには、下水道工事の詳細の説明があった。
この世田谷丸山公園から、約2km先にある弦巻三丁目東公園までの間に、直径5メートルの下水道管を新たに通している、というのだ。
「シールド工法」と書かれているが、これは道路トンネルを掘るときに使うような工法である。その機械を地中に入れるため、大きな縦穴が必要で、二つの公園にその穴が作られている。
航空写真で見える巨大な穴がそれだ。
トンネル工事自体は完了したようだが、関連する工事が続いている。
そして、この看板に載っている写真が衝撃的だった。
道が、住宅地が、水浸しに……!
平成25年(2013年)7月23日、東京都心部を集中豪雨が襲い、世田谷区では1時間に100mmを超える雨量を観測した地点があったという。
下水道としての蛇崩川の排水能力をはるかに超える雨量だったため、排水しきれない雨水で、街が水浸しになってしまった。
ちょっともう記憶にないのだが、おそらく当時はニュースでも報道されたのだろう。
それで、ここでちょっと思い出してほしいのだ。
駒繋神社の看板に載っていた、「下馬・上馬」という地名の、怪しい由来のことを。
あれ、この話、もしかして真実味があるのか……?
現代の上馬4丁目は、集中豪雨の際に、水浸しになってしまっていた。
もし地面がアスファルトではなく土だったら、あの後しばらく、「一面のぬかるみ」になったかもしれない。
頼朝公、ぬかるみの下馬~上馬地域を、本当に歩いていたかもね……?
この地域が、現代でも、そして800年前でも、なぜ水浸しになるのか?
答えはもちろん「川沿いだから」なのだが、もう少し深堀りたい。
地図に浮かぶ、青い蛇
この地域は、蛇崩川が浸食によって作り出した、周囲より低くなっている谷の地形にあたる場所だ。
豪雨の際には、周囲から水を集めてしまう地域ということである。
そして現代には、そういう地域をわかりやすくあぶり出した地図がある。
実は、私が暗渠というものに最初に興味を持ったきっかけの1つが、その地図だった。
世田谷区のウェブサイトに掲載されているものを、そのままお借りしてここに載せたいと思う。
ご存じ、ハザードマップである。
世田谷区内に青や水色のラインがたくさん見える。
でもその中で、水面を持つ「開渠」の川は、細く濃い青の線で描かれている部分だけだ(南西部を流れる多摩川、野川、仙川など)。
では、水色で塗られた、川のように見える筋は何か?
この水色は「豪雨時に浸水が想定される地域」を塗ったもの。
それがそのまま、開渠の川だけでなく、暗渠の川をも浮かび上がらせている。
いま話題にしている蛇崩川の部分を拡大してみる。
今までたどってきたルートは、確かにこのハザードマップ上で青く塗られている。いよいよ蛇のように見えてくる。
こうしてみると、暗渠サインである学校が、川沿いに多いこともわかるのではないだろうか。
この地域が浸水する理由は「内水氾濫」と言って、要するに、下水道管の排水機能を超え、下水があふれて浸水するということである。
連載第1弾で紹介した「烏山川」も、蛇崩川以上にはっきりと浮かび上がっていることに気づいただろうか。
この図の左上から右下へ流れ下っているのが烏山川。その少し北を流れているのは北沢川。その2つが合流して目黒川となる地点もわかる。
3つとも現在では暗渠となった川だが、地図上ではっきり見える存在になっている。
この地域の中で、濃い青はなんと「3~5メートルの浸水」という想定である。
暗渠の川は、現地に行ってもそこに水には流れていないし、普通の地図上では明瞭には見えてこない。
でも、ハザードマップ上では川がはっきりと流れている。
これはなかなか面白いことだと思うのだが、どうだろう。
なお、この青く塗られた部分は、ほぼそのまま「周りよりも標高が低い部分」と一致している。
地図を標高で塗り分けるだけでも暗渠の川が可視化される、というのは、この連載の序章で紹介したことがあった。
これまで暗渠についてずいぶんいろいろ書いてきたのだが、実は、「防災」という観点ではあまり書いてこなかった。
川が暗渠になる理由はたいてい、いくつかの複合的な理由なのだが、洪水被害を抑えるためという側面もある。実際、暗渠になる前の蛇崩川や烏山川は、けっこう頻繁に水があふれていたらしい。
その川を暗渠化して下水道幹線とする際には、単純にコンクリートで蓋をする工事をしたわけではなく、雨水の排水能力を持たせて工事したのだという。
それでも、近年の地球温暖化の影響なのか、これまでの想定を上回る豪雨に見舞われるようになり、1960年代に暗渠化した川の排水能力では足りなくなってしまった地域が出始めた。
蛇崩川暗渠で行われていた工事は、より強力な排水能力を持たせるための工事だった。
改めて、歩いてきた暗渠道の風景を振り返る。
この写真にある地域はいずれも、極端な豪雨が降ったとき、最大で2m浸水することが想定されている。
普通に住宅の立ち並ぶ地域なのだが、2mの浸水を想像すると怖くなる。
暗渠道は、豪雨の際に水没する道、である。
暗渠道沿いにお住まいの方は、さすがにそのリスクも把握しているものと信じたい。(世田谷区では、ハザードマップは各家庭のポストに投函されていた)
暗渠道沿いの公園や学校なども、浸水リスクを抱えているケースがある。豪雨の際に暗渠公園で遊ぶ子供などいないと思うが、大人としてはそのあたりも把握しておくに越したことはない。
今まで、この「暗渠道の誘い」は、非常にニッチな趣味の話として書いてきた側面が強い。
が、都市災害の1つとして集中豪雨による浸水は無視できない問題になっている。であれば、「地形に注目して街を歩く」という特殊な癖も、少しは役に立つのではないかと思う。
なんだか真面目な話で終わったが、蛇崩川では特殊な工事が行われていたこともあり、今回はこんな話を織り交ぜてみた。
次回で、蛇崩川の本流は最上流部まで駆け抜けよう。お楽しみに。
次回 蛇崩川編③
ツッコミが追い付かない、異質な本流上部
柏原康宏(かしわばら・やすひろ)