ブロッコリー譚 #同じテーマで小説を書こう
合理的であることが人間と動物を分ける性質であると思っていたが、そもそも合理的とは何かを考えたことがなかった。私の使うほとんどの合理的は常識的という言葉で置き換えられるように思えた。だとすれば私は私が人間であると言えるのだろうか。
四十を超えても知らないことの多さに愕然とすることは度々だ。その都度正直に学んではいるつもりだが、部下の引きつった微笑みを思い返してみると、私の態度には不遜が満ちていたに違いない。それは役職が上がるにつれて住み着いた私の慢心が原因だっただろう。齢の重ね方によくあるど壺に私ははまっていた。無知と恥じに結びついた琴線に触れないようにそっと潜り抜けて説明する彼らの技は素晴らしい。しかし、それが私の小我を増長させた。要職に就いてからというもの私の機嫌を逆撫でるのは意欲のない同僚、意図のない上役の呟き、そして行政くらいだった。
一昨日からの一連の奇妙な出来事は久方ぶりに私の脳髄を打った。それは私というものが今だにちっぽけであること、世界は未知に満ち満ちていることを私に知らしめた。娘たちの教育などと悠長に考えられる立場になく私は自身への教育が急務であった。私の人格は句点を打って完成されたかように思えていたが、あの女性と比べると誤字脱字だらけので未完であった。
5月、コロナ禍による日本政府の外出自粛要請から1ヶ月が経った。昨年末に大連の真空断熱材工場の建物が完成したのだが、covid-19により製造ラインがいまだに組み立っておらず、予定していた梅雨明けに製品の納入は絶望的だった。先日、駐在員から中国国内の部材工場の操業が4ヶ月ぶりに再開されたと報告があり当初の予定とは大きく変更を余儀なくされるも計画再開の目処が立ったところだった。
一昨日の昼、私は書斎でテレビ会議を行っていた。取引先の工場と弁護士を交えた契約書の内容の変更の最終調整をし終えたところだった。先方が会議から抜けて部下と私だけが残った時、私のマイクから娘たちの賑やかな声が聞こえるとの指摘をされた。会議を妨げるほど騒がしいわけではなく、楽しそうな雰囲気が伝わってくるだけだと部下は言っていた。先方の人達は外国人であり、そう言った事に寛容であるので気に障ったこともないだろう。しかし、私はそれに仕事に対しての気の緩みが現れているように思えて恥ずかしくなった。
小学5年と3年の娘二人は学校が休校になって二月が経つ。時折、近所の公園に行っているようだが、それにしても家に篭りっぱなしの日々であった。育ち盛りな二人の体力を発散させるために少々の騒がしさはしかたないと許容していたものの、その日はやけにうるさかった。何か面白いことでも起きたのかと話を聞けば、公園に行った帰りに頭にブロッコリーを乗せた女が油小路通りを歩いていた姿を見たようで、歩くたびにブロッコリーがお辞儀をするように曲がり、ヘッドバンキングしているように見えるのが愉快とのことだった。私はあまりのくだらなさに呆れてしまった。箸が転んでもおかしい年頃の娘らが興味の持つものにおじさんが共感するのは難しい。普段なら俯瞰して聞き、君たちが楽しいなら何よりと言って鷹揚に受け入れるのだが、仕事に干渉する今回はそんな余裕がなかった。また、騒がしさを注意せず一緒になって笑っていた妻にさえも苛立った。当分の間子供部屋を出ないようにと私は二人に言い付けた。
次の会議まで少し時間があった。換気扇の下でタバコを燻らして書斎に戻った。パソコン上ではメールの未読を知らせる点滅が煩わしく光っている。
私は娘らにどう接していいのか判然していなかった。以前までは早朝に仕事へ行き深夜に帰ってくる生活だったため平日に娘たちと会話することはほとんどなかった。休日でも娘らを習いごとに送迎するくらいで、家族サービスと言えるような大したことはできていない。自宅でのテレワークによって通勤時間が削れる分家族に割く時間が増えると思われたが、未曾有の疫病と慣れない環境による効率の低下によって仕事は終わらず、以前よりも長時間拘束されていた。ただ、昼食も晩飯も家族と一緒に囲められる分、まだ家族の連帯を築けているような気がしていた。トマトは嫌いだけどミニトマトは好きな長女、マヨネーズをかければほうれん草もブロッコリーも食べられる次女。同じ家に暮らしているはずなのに知らないことだらけだった。
22時、私はようやく晩飯についた。金曜日ということもあり翌週に持ち越したくない仕事を処理していると思いの外遅くなった。娘らは先に飯を済ませて風呂に入っていた。妻がそれを見計らって私に頼み事をした。私はすっかり忘れていたのだが、翌日は長女の誕生日であった。自分は彼女の好物のビーフストロガノフを作って忙しいので私にケーキを受け取りに行って欲しいとのことだった。妻は専業主婦であるがよく働いていることは知っている。家庭で困りごとが起こったことはなく、小さい娘二人をよく躾ている。また私を立て私の意見を尊重してくれ、バランスの取れた妻であった。誕生日プレゼントの任天堂switchは入手困難であるようだが無事調達されていた。妻には娘たちの喜ぶからだけじゃなく二人が静かになることで私の仕事が捗るという計らいもあったようだった。
しかし、娘らが任天堂switchを欲しがっていると妻から聞いた時、私は嫌な気持ちを覚えた。長女はいくつも習い事を始めては辞めている。堪え性がない。その癖を小さいうちに改善させなければ、将来面倒ごとになるとは推測できた。ゲームは適度な飴を与え続けて、その癖を助長するように思えた。妻は娘二人が様々なことに挑戦して夢中になれることを見つけてくれたらいいと焦っている様子はなかった。安穏とした妻のように楽観的な態度で将来を見据えてもいいのかもしれないとも思え、教育方針を明確にしないまま日々が過ぎていた。
私が書斎に戻り再び仕事をしているとリビングのほうから娘たちの騒がしい声が聞こえた。何事かと覗いてみると、妻が風呂に入っている隙に、長女が頭にブロッコリーをのせ脇に人参を挟み宇宙人の真似事をしていたのだ。次女はそれを見て手を叩いて大笑いしていた。彼女らはやっていいことと悪いことの判別ができていないのだ。食品で遊ぶことの行儀の悪さと思いやりの至らなさに私は激怒した。数年ぶりに声を荒げて叱りつけた。二人は泣いて反省しているようだった。その声に気づいて妻が濡れたまま居間に上がってきた。私は妻にことの顛末を話し書斎へ戻った。その後、妻は日が変わる前に二人を寝かしつけた。昼に見た女に感化されて二人はお風呂の間その宇宙人を演じていたようだ。長女は次女の頼みを渋々引き受けて野菜を使ってその真似をしてしまったようだった。
今朝方、私は妻の言いつけ通り東寺近くのケーキ屋に向かった。春の日差しの中に夏の香りを感じられる日和、外出自粛で街は静かとはいえ、油小路には幾らかの人と車が往来している。
私は財布をジーンズに入れただけの鞄も持たないシンプルな格好であるが、頭の中では娘の教育についての考えが錯綜していた。明らかに昨晩の出来事が尾を引っ張っていた。娘に基本的なことでさえ教えていない妻にもその矛先は向かった。
やはり、ゲームはまだ早い。そう結論づけた時、スーパーの入り口付近で近所の婆さんらが大笑いが聞こえた。彼女らの視線を辿るとブロッコリーを頭にのせた女が歩いていた。私の方へ向かってきた。噂通り頭のブロッコリーは揺れて今にもおっこちそうだった。私は婆さんらにあの女は何者なのかと尋ねたけれど彼女たちも初めて見たようだった。そして、最近のファッションはよくわからんと嘲笑を続けていた。
その女は私を追い越していった。奇を衒うyoutubeの撮影でもしているのかと辺りを見回してもそれらしき機材はどこにもなかった。ただの道に岡潔のような天才がいるはずもなく、ただの変質者に違いなかった。その女は二十代前半くらいで、女性にしては背が高く中高の整った顔立ちであった。近くでみるとなかなかの美人である。それが故に、おかしな格好をしていることにより不可解であった。
彼女とすれ違う人達は一様に彼女の頭を指差していた。私は馬鹿にされている彼女が可哀想になったので思わず声をかけた。
「君、頭に変なものが乗っているぞ」しかし、その女は見当もつかないような表情で私を眺めた。私は続けて「その頭だよ。」と指をさした。
「これはブロッコリーですよ」と彼女は思い出したかのように答えた。
「それは見れば分かりますよ。ただ、そういう話じゃなくて、それは流行りのファッションなのかもしれないがやめたほうがいい」
「これが流行っているんですか」
「流行ってるからやってんじゃないのか。まぁそれは知らんが、とにかく気狂いに思われてしまう」
「確かに、そう見られてもおかしくはありませんね」
「僕はファッションは自由だと思うけど、食品をそんな風に扱うのは許せないんだ」
「私が好んでブロッコリーを頭にのせてると思ってるのですか」
「違うのか。じゃあ、なんでしてんだ」
「天気予報では今日も雨が降り出すようなんですよ」と女は述べた。要領がつかない私の顔を察して続けた。「ブロッコリーの蕾って水を弾くんですよ。あの、傘って知ってますか?」
話の要領を得ず尚且つ私を常識の知らない人間のように扱う態度に苛立ちを感じたが、私はそれを顔に出さずに話す方法ぐらいはいくらでも知っていた。
「ブロッコリーを傘にしようってことか。確かに理にかなっているかもしれないが、食品をそんな風に扱うのはよくないに決まっているだろう」
「ブロッコリーは食品以前に植物ですよ。」と無垢な表情で女は述べる。
この女が話の通じないただの気狂いと分かり、私は話しかけたことを後悔した。しかし、昨晩の嫌な気分の元凶と考えると引くに引けなくなった。
「娘が君の真似をして困るんだ」
「私の。何の真似ですか」
「頭にブロッコリーを載せるんだよ。」
「そうなんですね。」
「だからそれを辞めてくれ」
「私が好んでブロッコリーを頭に乗せてると思ってるんですか」
「だから、傘の代わりだろ」
「もちろんはじめはそうでした。ただ今ではもう外せないんです」と女は笑顔で言った。私はさっぱり理解ができなかった。当然の如く物質的に頭からブロッコリーを離せないはずもなく、私は精神的な固執が原因で外せないと考えた。しかし、そうではなかった。それを知っているかのように女は言った。
「頭から取ろうとしてももう取れないんです。このブロッコリーって私の頭に根を張っているんです」と澄み切った眼で女は答えた。奇妙な女に起こる出来事が奇妙であっても違和感はない。私は彼女の言葉を疑わなかった。わざわざ根元を確認せずともそれが本当であることはその女を見ていればわかった。
「もちろん、切ったり隠したりすれば誰にも知られずに暮らせるでしょうけど、本当の自分を偽るのって馬鹿らしいでしょう」と優しい目をして女は答えた。
私は未知との遭遇に言葉が出なかった。同情するというよりもむしろ確固たる芯を持つ彼女に尊敬の念を抱いた。彼女は私のような奇妙な輩に絡まれたにも関わらず何事もなかったのように立ち去っていった。街には春の剣呑な日差しが降り注ぐ。その中で女の頭のブロッコリーは揺れることもなく堂々と育っていた。