你吃了几个饺子?が全く分からなかった頃
你吃了几个饺子? (餃子をいくつ食べましたか?)
人生幾度となく、大いなる屈辱感を味わうときがある。
大学時代に第二外国語で中国語を履修していたこと、そして漢字表記ゆえある程度内容を類推できるというアドバンテージにより留学先の分班考试(クラス分けテスト)を経て中級班からスタートすることになった。
だが授業は案の定ちんぷんかんぷん。悲劇的だった。
授業中に老師(先生)が学生たちに尋ねる。
老師:「你们吃过饺子吗?」(皆さん餃子を食べたことがありますか)
他の学生たち:「吃过~」(食べたことありま~す)
老師:「你吃了几个饺子?」(あなたはいくつ食べましたか)
何ということもない会話練習だが「ドッキリ」じゃないかと思うほど自分以外全員分かっているというのは気に障った。
アメリカ人も、チェコ人も、パキスタン人も、そして日本人の同学(クラスメイト)もだ。クラスで最も若いチェコから来たマクーリ(漢字でどう書くかは忘れた)も得意げに応じている。
(お前ら、餃子食ったことはあっても、作れないだろう)
などと、敵対心を持ったところでどうにもならない。
授業開始から数日間、老師の一言一句を聞き漏らすまいとカセットテープで録音していた。文明の利器を駆使した戦法だ。
だが聞いても理解できないものはそのまま積みおかれ、早々にギブアップ。ずっと後になってそのテープを聞いてみて改めて悔しい思いをしたのだった。
老師:你呢?(あなたは?:あなたはいくつ食べた?)
··と自分に問われた後の、テープの沈黙が哀れでならない。
餃子を食べてふと思い出した屈辱の授業のひとコマでした!
(写真は水餃子にする前)