国際電話をかける / 打国际长途
打国际长途
dǎ guó jì cháng tú
国際電話をかける (間違いなく死語だろうね)
私は企業派遣留学だったが、当時の北京語言学院には、大学を休学してくる者、高校卒業と同時に日本の大学へは行かずに来る者など事情はさまざまだった。大学の単位取得のプログラムとして組み込まれているスタイルは当時まだ少なかったと思う。
日本以外ではパキスタンやチェコ、アルゼンチンなど政府関係者や役所職員などもいた。将来中国とのパイプ役となるような研修生なのだろう。
社会人経験を経てからの留学は「天国」だった。何といってもそれまでの日常の仕事から解放され、学びながら給与ももらえるのだから。もっとも羽振りが良かったのは銀行から派遣された留学生だった。彼らには一日遅れではあるが日本の新聞も届いていたし、週末にはゴルフにも出かけていた。(新聞は回し読みさせてもらった)
学内の生活が落ち着くまでは日本の家族にたびたび連絡を入れていた。ウインドウズ95はもちろん、Eメールも携帯もなかった当時、方法といえば、死語となったエアメールか、テレフォンカードを購入しての国際電話だった。それなりの値段もしたので企業派遣といえども毎日かけるというのはもったいない気がした。留学生宿舎には国際電話ボックスが二つあったがいつも大勢の人が並んでいた。
ある時電話の行列に並んでいると、前の女性の声が聞こえてしまった。泣きながら、「ここ(大学)に来てからまだカップラーメン三つしか食べてないの」と言っている。おいおい、昨日今日来たわけではないだろう、とツッコミを入れたくなる。食堂の食器は確かに欠けていたり、ごはんに石が入っていたりすることはあった。トイレは言うに及ばない。その他生活全般が彼女の思っていたものとは大きく異なっていたのだろう。もしその頃ネットがあって事前に調べたら、きっと彼女は留学に来なかっただろう。
こちらは毎食学食で美味しく食べたていたし、特に夕食は一汁二菜、大びん1本(ビール)にご飯をつけても格安を下回っていた。たまに学外のレストランへ行けば贅沢気分を味わえた。部屋は相部屋、共同トイレにはまともな鍵はなかった。シャワーは途中で水になったり出なくなったり。だが全員そうなのだからそれが環境だと思うしかない。今思えば環境適応力があったのだ。
国際電話をかけていた彼女はその後どうしたかは知る由もない。