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美術館時間ゆっくり現象について考える
仕事や学校に通う日々を過ごす中で、なんだか心が落ち着かない、もっと言えば心のどこかで常に切迫感のようなものを感じている人は多いでしょう。
「タイパ」という言葉が一般的に使われるようになり、「リスキリング」という言葉を様々なメディアで目にするようになり、気づかぬ内に私たちは、効率を意識して何かの努力を続けなければいけないという義務感を刷り込まれています。
特にタイパ意識の刷り込みは顕著です。
今の時代、何よりも貴重なのが時間です。誰もが平等に持つ有限の時間は、今や分刻み秒刻みで何かしらの行為・行動で埋め尽くされています。
もちろんその全てが重要な行為・行動ではないでしょう。隙間時間にスマホを取り出してアプリを開くのもその1つです。SNSをチェックすることが人生をより良くするとは言えませんが(むしろSNSの利用頻度と自己肯定感の減少やうつ病発症リスクとの関連性が指摘されています)、それでも何もしないでいる時間は落ち着かず耐えられないものになってきているのです。私も「いかんよなー」と思いつつ、しょっちゅうXやnoteの画面を開いてしまいます。
「可処分所得」ならぬ「可処分時間」という言葉まで登場してきました。自分が自由に使うことができる時間という意味ですが、身の回りに氾濫する膨大なコンテンツ(教育も娯楽も全部含みます)に根こそぎ奪われ、ほとんど可処分時間は残されていないということもままあるでしょう。
そこで「時間術」「時間節約ハック」などが一世を風靡し、私たちは必死に粉箱をごしごし引っ掻いて粉をかき集めるようにわずかな時間を捻出しようとするのです。
考えるまでも無く、そんな状況が健全だとは言えません。
最近では、タイパへの忌避感、タイパ疲れという傾向が明確になってきています。しかし、たとえ嫌気が差したとしてもタイパのループにどっぷりとはまってしまうとそう簡単には抜け出せません。
では、どうすればいいのでしょうか。