日本初の美術館と展覧会
(続きです)
18世紀に入ってヨーロッパで起きたアーティストを取り巻く構造変化は、遅れる形で日本にもやってきました。
江戸時代までの日本では、ヨーロッパと同様に、やはり美術は誰かのため、または何かのために制作されるものだったという話はすでにしましたね。
日本の絵画は基本的に、寺社、城、邸宅などを飾るために制作され、形状をとっても屏風や襖など実用的な調度でした。鑑賞するものであると同時に、使用するものだったわけです。
そして絵を描くのは絵師と呼ばれる職能集団でした。お抱え絵師、御用絵師という言葉もあり、将軍家や宮廷の専属となって仕事をする者が、画壇のヒエラルキーのトップに君臨していました。
江戸時代後半に、富裕町衆の中から個人で活躍する絵師(尾形光琳しかり伊藤若冲しかり)が登場するようになりますが、それでも彼らが自分のために純粋に絵を描いていたかと言えば決してそうではなく、やはり注文を受けて制作をしていました。大量印刷される廉価な作品として広く市場に出回った浮世絵だけは、やや例外と言えますが。
さて長らく続いた武士の世が終わりを告げ、明治維新という日本の骨組みを一から組み立て直すような大変革が起きた時、美術を取り巻く制度も人々の意識も激しく変化することになります。
その変化の一端を担ったのが、そう展覧会の登場です。
いや、厳密に言えば、江戸時代にも「書画会」と呼ばれるような展覧会に類するものがあるにはあったのですが、それはある程度限定的な文化人サークルの中で鑑賞されるものであり、ここでは別物とします。
きっかけとなったのは、1873年のウィーン万国博覧会でした。
この万博に日本は国として初めて公式参加をしました。
万博会場で日本政府の人間たちは、繊細な装飾を施した日本の陶器や漆器がヨーロッパで高く評価され、需要があることを知ります。そして殖産興業の一環として、海外向け工芸品の生産を強化しようという方針を立てました。
日本国内で美術工芸の生産を推進するために1877年に催されたのが、第1回内国勧業博覧会です。これは当然、万国博覧会の強い影響を受けたものでもありました。
上野公園内にパビリオンを建設して開催された内国勧業博覧会ですが、その建物のひとつに「美術館」という名称が付けられました。ちなみに「美術」という言葉自体、ウィーン万博参加に際して必要に迫られて造られた、出来たてほやほやの新語でした。
仮設のパビリオンながら日本で初めての美術館には、古今の美術品がずらりと展示されました。展覧会の始まりですね。
そして察しの良い方はもうお気づきでしょうが、日本もまた展覧会の登場がきっかけとなって美術を取り巻く環境や意識が音を立てて変わっていくことになります。
続く