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「なぜ日本絵画には水平線が無いのか」を考える(その7)
その6(↓)からの続きです。
さぁ、ペースを上げていきましょう!
■安土桃山時代の風俗画の場合
室町幕府が倒れ、織田信長、豊臣秀吉という2人の天下人が次々と登場したのが、安土桃山時代です。
この天下人の信頼をがっちりつかんで勢力を拡大した狩野派は、当主の狩野永徳を筆頭に、時代の空気に応じた絢爛豪華な金碧障壁画を次々と制作しました。
永徳が描いた《洛中洛外図屏風(上杉本)》を見ると、これまでの日本絵画で重要な役割を果たしてきた霞が、金雲という形になって画面全体を覆っていることに気がつきます(↓)。
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《洛中洛外図屏風》はその名の通り京都の景色を描いたものですが、この金雲によってランドマークとなる城や寺をある程度好きなように配置できるというのがミソですね。空間を自在に省略できるからです。
狩野派は漢画系の流派ですが、やまと絵の絵画様式をたくみに取り入れていたのです。
《洛中洛外図屏風》は、はるか上空から見下ろしたような完全なる俯瞰視点であるため、水平線は存在しません。
視点を高くとった俯瞰構図という点では、平安末・鎌倉初期の《山水屏風》(↓)に原点回帰しているようにも見えますね。
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桃山から江戸時代初期にかけて、狩野派を中心に描かれた風俗画屏風ではこの描き方が基本になります(↓)。多くの人々を描く必要がある風俗画では、斜め上から見下ろす俯瞰視点が最適だったのです。
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そして、上の《南蛮屏風》が象徴的ですが、この時代の大きな変化としてヨーロッパとの接触が始まります。交易や布教のためにやってくるオランダやポルトガルの人々を、日本では南蛮人と呼んでいました。こうして、中国を中心とした東アジアとは異なる世界の情報が日本にもたらされることになります。
その中で、イエズス会の宣教師が伝えた西洋画法を用いて日本で制作されたのが「初期洋風画」と呼ばれる絵画作品です。まだ技術的には未熟で、次の江戸時代により本格的な西洋画法に挑戦する「洋風画」というジャンルが登場するため、桃山時代のそれは「初期」という言葉がつきます。
ここで、いよいよ私たちのよく知る水平線が登場します(↓)。
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霞で隠すでもなく、あえて空白にするでもなく、地と空を分ける明確な水平線はやはりヨーロッパからもたらされたのです。
ついに来たか、と思いきや、イエズス会由来の初期洋風画は、秀吉が禁教令を出したためごく短期間でその姿を消します。
次の江戸時代、洋風画と浮世絵という2つの絵画ジャンルで大きな視点の変革が起こります。ごく短期間で消えたものの初期洋風画はそれを予感させるという意味で見逃せないものなのです。
つづく