GAKUルーツ《田故知新》VOL.3
こんにちは!2024年最初のnoteとなります『GAKUルーツ《田故知新》VOL.3』!
本年もどうぞよろしくお願いいたします!!
さてVOL.3は、前回に引き続き1970年代後半から1980年代前半の田楽座新聞よりセレクト。
社会的にも安定成長が続いてバブルに向かっていく時代。新しいものはテレビから、流行は東京から…多くの若者が“おしゃれな都会暮らし”に夢を抱く時代の風潮の中で、田楽座メンバーは大汗かきながら自分たちの信念を貫き続けている!
そんな風にビシビシ感じる記事がたくさん。言葉もエッジが利いていて。
さあ今回ご紹介する記事は、舞台の上演演目について解説するシリーズ「演目うらおもて」より、現在も上演し続けているあの演目!
「とりさしまい」
1980年当時で上演13年、すでに「十八番」として田楽座の看板となっていた「とりさしまい」。
県内外を回っていると、“田楽座”という名前は憶えてなくても、
「“さいとろさいてみっしょうか”の唄は憶えてる」
「子供の時に観たよ」
という人に出会う機会がよくあります。そして、
「今も田楽座でやってますよ!」
と伝えると、とても喜ばれる。それがまた嬉しい。
田楽座の歴史のひと続きの上に自分がいることを実感できる瞬間です。
田楽座といえば「とりさしまい」。
ルーツを掘り起こすうえで外せない、大事な大事な演目です。
田楽座新聞 第73号より 1980年2月1日
【演目うらおもて】とりさし舞の巻
演目うらおもての三回目は、いよいよ地元信州の芸能、鳥刺し舞い、別名「さいとりさし」、または「さいとろさし」の巻です。
田楽座の鳥さし舞いは、先月号で紹介したように、木曽郡、南木曽(ナギソ)町の蘭(アララギ)の方から習い、地元の方をはじめ、見た人たちの意見もどんどん取り入れながら田楽座流にアレンジしてきたものです。
昭和49年2月に信濃毎日新聞が発行した『信州の芸能』の中にも、〝最近、伊那市の田楽座がリズミカルに編み直したものを妻籠の若い衆がやり出した。さいとりさしが木曽踊りや須原ばねそのように木曽の代表的芸能になる日もあろう〟と紹介されています。
地図で矢印をしたところが蘭(アララギ)で、妻籠の宿から飯田への峠道の山合いに沿った細長い地区です。田楽座がここの鳥さし舞いを知ったのは、昭和41年秋、松本で行われた第一回県青年文化祭で四人の青年によって踊られたのを見たときでした。ぜひ教えていただこうとその年の12月にはさっそく現地をお訪ねしたという次第です。
それから13年。下伊那郡松川町の部奈の方がたから習った獅子舞などと並んで田楽座の、言うならば十八番の芸として、お子さんからお年寄りまで、あらゆる層の方がたに喜んでいただいてきましたが、先ごろの鹿児島公演でも大受けで、三~四才の子供さんから学校の先生方にまで、「サイトロサイテミッショウカ」と真似が流行して、「こんなことは18年前のわらび座公演の杓子舞い以来」と言われました。鳥さしはすでに木曽の代表的芸能になった訳です。
ところで鳥刺しとは、明治の初期まで、ほぼ全国的にあった職業で、菅笠姿に手甲(テッコウ)、脚絆(キャハン)、腰に綱袋(またはビク)、手にモチ竿を持って一日中鳥を刺して歩いたといいます。江戸時代、将軍が鷹狩りに使うタカの餌として小鳥をとらせたのにはじまるのですが、文化文政の頃、19世紀の初めには、殿さまと鳥刺しと、鳥たちの札を作ってまぜ合わせ、クジ引きのようにそれを引いて、殿様になったり鳥になったりする遊びさえ出てきます。しかし、檜(ヒノキ)の美林を目の前に見ながら、「生木一本首ひとつ」と言われ、下草を刈っても罰せられた木曽の人々にとって、鳥刺しは生きるために欠かせぬ生業(ナリワイ)でした。木曽の鳥刺したちは、入ってはいけない山へものっしのっしと分け入って生き抜いてきたのです。
蘭の鳥さし舞いは、歌われているその歌詞、
「私しゃなあ、丹羽のくに鳥さしのせがれよ」
というのを見ても、それこそ関西からはいってきたのかもしれません。鳥刺しの真似をして門付けををしたり、語り物にしたりする人があらわれて、鳥刺しはひとつの芸能となって、再び鳥刺しを業とする人たちの中へもどってきてよりリアルな踊りになったのかもしれません。
今、知り得た鳥刺し舞いは、県内で、蘭のほかに小県(チイサガタ)郡青木村飯田市の立石、上伊那郡中川村、上田市の川西の五カ所に、また、遠く鹿児島県は北薩の出水地方に二カ所と種子島の南種子の合わせて八カ所ですが、鳥刺しがほぼ全国的に行われていたことと、誰でも真似をしたくなる安木節のような舞いであることからほかの土地にもあるはずです。
ごぞんじの方はぜひ教えていただきたいと思います。