都会の自然を発掘せよ〜里川に育まれるナマズ〜
それは見慣れた光景だったはず
水面をのぞけば黒いコイたちがほっつき泳ぐ。整備された町並みを流れるのは都内の里川だ。我が家の前を流れる川もその例外ではない。
しかし、その日は何かが違っていた。いつものささ濁りの水は澄んでいた。しかも無風。普段は見えない砂地の川底ではカマツカが餌をついばむ。
あれ。何となく気分が上がる。
そうなると、視線は自ずと水中に向いた。ふと視線の先は岸際の石積みに吸い込まれる。そこにはあの魚が居た。
あ、ナマズだ。
Silurus asotus(シルルス アストゥス)
日本のナマズ。“マナマズ”である。それが石積みに身を寄せるように1匹、2匹…。
我が家の前を流れる里川は多くのナマズを育む素敵な場所だったようである。水が澄んでいなければ、風が吹いていれば気付くことはなかった。
この魚には特別な想いがある
中学生の頃から何歳になってもナマズは私にとって憧れだ。そもそも、私のルアーフィッシングは2.7mの投げ竿にナイロン4号という初々しい道具で銀色のスプーンを多摩川に放った時に始まる。もちろん、ナマズを獲るためにだ。
ちなみに、大学時代に移り住んだ高知県で初めて手にした魚もナマズであり、後に到来するナマズブームを先駆けた。さらには怪魚ブーム前夜、琵琶湖水系の河川で日本三大怪魚のビワコオオナマズをも手にしてきた。もちろん、アカメもイトウも。こうした主張は、「流行る前からやっていたよ。」の典型的なものであるから、今書いてみて恥ずかしい思いをしている。
愛か希望か夢か…いやナマズだ。
学生時代に聴き入った曲の歌詞の一節にこんなものがあった。
今回は“気づいたら足元にナマズが転がっていた”ということなのだが、その気になってみれば見慣れた場所が別世界に見えてくるのは面白い。
どうか大人の遊びにご理解を
ほどなくして私は釣竿片手に暗闇に紛れて水辺に立つ。頭上の遊歩道からは帰宅の途につく人の話し声や足音が聞こえる。いやはや、街中での釣りには特異な緊張感が漂う。どうか45歳の大人の遊びにご理解を。
対岸の際に投げ込んだルアーが暗闇の中で捕食音に包まれるまでに時間はかからなかった。
「ドゥふんっ!」という音が響く。
この音こそがナマズ釣りだ。生音をお届けできないのが悔しい。
その後、この川は自身が育むたくさんのナマズ達を私に引き合せてくれた。大きな個体から小さな個体まで。大きな魚はもちろん嬉しいが、小さな魚も嬉しい。何故なら命の繋がりを意味しているからだ。
都内の自然を発掘せよ
「東京は自然が豊かだと思いますか?」
という問いに多くの人はNOと答えるだろう。確かに、量で比べるのであれば、日本各地のどの場所と比べても劣る。しかし、いちど東京を離れて再び戻ってきた私には、違う一面も見えるようになった。
それは「東京の自然は少ないけれども豊か」ということだ。
東京に残された自然は、沢山の人達に大切に扱われている。開発により少なくなってしまったからこそ、残された場所は守られている。
先日、我が家の前を流れる川のある場所で河川工事が終わった。工事で設置されたのは魚道であった。
かつての高度成長期時代、コンクリートによる護岸整備で多くの街中の川は本来の姿を失った。水辺の土はなくなり、川の流れは無機質なものになった。こうして生き物たちの住処や産卵の場所は奪われた。しかし、現在は少しずつ取り戻す活動が進み、確実にそれが実りつつあることを感じる。
この灯が消えないように、私も積極的に関わっていきたい。