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会議が嫌すぎてうつ病になった話1

それでも会議は進む、組織はより活性化する


はじめに

 会議というものは組織の動きを円滑にするうえで欠かせないものである。組織の方針が定まらなければ目的を達成することはできないし、組織に属する者たちの粒度を揃えることもできない。そのため会議は重要であり、何人たりともそれを忌避することなどあってはならない。しかし、組織によっては「会議」をすること自体が目的になっていることもあるもので…。

コロナ禍の到来

 2020年、世界はコロナの鍋に包まれた。今まで当たり前だった学校への通学、会社への通勤、ちょっとした外出が非常識になり、何が常識なのかがわからない混沌とした有様であった。感染のリスクのため、顔を合わせたコミュニケーションが難しくなり、世間はオンラインでのやり取りの手段を導入した。幸いにも私の所属していた組織は普段からオンラインでのやり取りに慣れていたため、難なくリモートでの業務へと切り替えを実現した。

増える「コミュニケーション」

 リモートでの業務に切り替わってからは本当に楽園だった。今まで通勤にかかっていた約三時間を業務に全て組み込むことができるのだ。おかげで異常に疲れるようにもなったが、仕事の効率は顕著に良くなったため良し悪しだった。一方で、一つだけ私を悩ませるものもあった。それは上司による「会議」だった。今までも会議は定期的に開催され、進捗の報告や今後の方針の共有などを行ってきたが、リモートでの業務に移ってから会議の回数が増えてきたのだ。
 顔を合わせることが難しい状況であるため、会議が増えること自体は致し方ないものだと感じていた。しかし、その内容は進捗報告や今後の方針を決めるものから、徐々に雑談が増えはじめた。雑談が有意義に行われるためか「会議」の頻度は多くなり、時間も長くなり始めた。皆で顔を合わせて仕事ができない以上、コミュニケーションの場を意識的に設けることが大切なのだ…そう思いながら、私は「会議」に付き合うようになる。

会議に懐疑的

 それからも「会議」は頻繁に開催された。この頃の会議は特定のメンバーが片っ端からアイデアを並び立て、それら全てに対して細かく議論を重ねるという流れが形成されていた。議論は実に白熱し、3時間、4時間、5時間、多いときは8時間と休みなく続いていく。私はこれは必要なことだと言い聞かせて「白熱した議論」に耳を傾けていたが、徐々に懐疑の気持ちが強くなっていく。「その議論に私は必要ですか?」と。
 議論が盛り上がるのに比例し、私は日に日に発言する頻度が減っていった。なぜなら繰り返し開催される会議の意義がわからなくなってきたためだ。一方で、私の与り知らぬところでとても重要な方針が決まるため、無駄話から重要な情報を抽出する作業に集中するようになった。これは本当に苦痛な作業だった。ダラダラと話すだけで誰も会議の議事録を作成せず、後で何を決めたのか振り返ることができないのだ。

下がる能率募る疲労感

 リモートでの仕事が半年ほど続き、すっかりこの状態にも慣れてきたころ、私は仕事の能率が落ちていることを意識し始める。頻繁に開催される会議に時間を取られ、また長時間の無駄話から必要な情報を把握する作業で精神的に疲労し始めていたのである。週に2~3回ほど会議は開催され、業務のほぼ8割の時間を費やすので、残り半分の日にちで仕事を進める必要があった。足らない分は「残業」として処理しなければならないため、業務の時間も増えていった。しかし案ずることは無かった。私の職場は裁量労働制なので、法定労働時間さえ越えなければ問題はないのだ。問題はない…。

組織の変革、そして会議

 会議が業務の主軸となって約一年、私たちの組織は大きな変化を迎える。会社内の組織の一部でしかなかった我々は、独立した一つの新たな部署として再編された。それに伴い、組織としてどのような方針で仕事を進めていくのかを話し合う必要が生じた。コロナの脅威が徐々に落ち着き始めたのもあり、週に一回は組織のメンバー全員で顔を合わせた定例会議が開かれるようになった。会議は相変わらず白熱し、業務時間の大半を費やす。コロナ感染のリスクを負いながら会議のための出勤…有意義である。

会議、会議、会議

 コロナ禍を通して形成された「会議」の形は、組織の方針を決めるうえでも大いに役立った。時に建設的に、時に何を結論付けたのかがわからず、ダラダラと主体的に話すものの間でのみ方針が共有されていく。この頃は私は心身ともに疲弊しきっており、会議の時間は我慢の場となっていた。休憩もなく勤務時間を存分に費やした会議は、私の普段の生活にも影響するほどに集中力を奪っていった。
 業務開始前にスケジュールを確認するだけでため息が出る。午後から「定例会議」、「~方針決定会議」、「~チーム打合せ」と多種多様な会議が並ぶ。チームの再編に伴い、別の部署から異動してきた方(以下A)が私に呟く。ここは会議が多すぎるし時間も取りすぎている。私が所属していた部署では時間を決めて会議をし、ダラダラと無駄な話はしていない…と。私はその状況が心から羨ましかった。
 組織の再編に伴って新たに「業務進捗会議」という厄介者もついてきた。この会議は月に一回だけだが、各社員が長時間をかけて仕事の進捗や方針を話し合うというものだった。それだけならまだしも、報告時にはスライドを作成して報告をしなければならないため、資料作成のための時間を業務から捻出する必要があった。適当に作成しても大幅な修正が入るため、時間をかける必要があることは必須である。

不規則になる勤務時間

 ある日、私は大きなヘマをしてしまう。上司との個人面談(会議)の時間を忘れ、大幅に遅刻してしまったのだ。幸い、スケジュール管理のやり方を見直すこと、出社時間を早くすることを宣言し、お咎めは無かった。出社時間が遅れているのには理由があった。もともと、私は毎日8時すぎに出社をするように行動していた。しかし、部署のメンバーの出社が遅く、話し合いの場(会議)を設けるために合わせていたら、徐々に出勤時間が不規則になっていった。早く出勤しても退勤前の話し合いに時間を費やすため、早く出社すればするほど自分の残業時間が増えていくのだ。
 そのような状態を見ていたAさんからは、私の体調を気遣う旨の言葉をいただいている。どうみても連日の会議がオーバーワークになっている。このままだと、あなたの業務に深刻な影響を及ぼす、とのことだ。それは私にもわかっていた。自分がすでに自身のペースで働くことができず、周囲のだらしのない時間の使い方にコントロールされていることは理解できていた。その時点では私にはどうにもできず、流れに身を任せるしかなかったのだ。

ここまで

 読んで、社会人なら会議は当然のことで、それが苦痛に感じるなどと何を甘えたことを言っている!と感じるだろう。そのような𠮟責は正しいと思っている。会議が多い組織の形態に迎合できない自分に問題があるのだ。上司を含めた部署内のメンバーは話し合いが好きで、会議を有意義な場として使うことができるのだと認識している。会議が好きで好きで堪らない、自分の業務をどれだけ圧迫してでも話し合いをしたい、という方にはこの現場は天国だろう。

私から見れば、会議を開くことが手段ではなく目的となってしまい、話し合いをダラダラと続けることで業務をしている気になっているように思える。私が理解できていない部分で思惑があるのかもしれないが、私には苦痛でしかない。


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